前回の「最適化された部材」について、少し掘り下げます。今回は束石についてお話します。束石は、ウッドデッキを作る際に避けては通れない重要な部材です。その目的は、束を腐らせないために水に触れさせないこと、荷重を分散して受け止めることです。 ウッドデッキを作る上で、最も困難な作業は床板の水平を出すことです。その理由は、床板の水平はそれを支える束石の設置に左右されるからです。デッキがいくら精密に作られていても、デッキを支える複数の束石のレベルが異なっていると、デッキにガタつきがでたり水平でなくなるからです。 デッキを設置する地面は、通常水平になっていません。微妙に凹凸があるだけでなく、土の密度も少し離れるだけで異なります。また、ほとんどの場合土地は沈下します。そして、沈下の度合いも、それぞれの束の位置で異なります。つまり、デッキ設置の地面には2つの問題があります。 1.土地の形状が異なり、レベルが微妙に異なること。 2.1ヶ月後、半年後、1年後と、土地が沈下するが、場所によって沈下度合いが異なること。 1に対応するために、地面を完全に水平にすることは不可能に近いため、束石のレベルが異なっていても、束で調整する方法が取られます。古来からの建築でもこの方法が採用されています。現在の住宅建設では、業者がコンクリートで完全な水平を出すことが一般的です。 2に対応するためには、束石を簡単に外せるようにすることが必要です。地面が沈下している場合、束が下方に引っ張られます。多くの場合、束を一旦外して土を加え、再度束を取り付ける必要があります。 これらのことから、束石は通常の住宅の束石とは考え方が異なり、ウッドデッキ専用の束石が必要になります。デッキ発売当初、日本中の束石を調べましたが、不適当なものが多く、理想のものがないため、当社で開発することになりました。 当社で開発したものは、小型でスマートです。必要十分な大きさで、余計なものはついていません。 現在デッキ用として発売されている3つの束石も写真に入れていますが、写真の①②は束を埋め込むため、デッキ設置後に取り外すことは不可能です。③は金具がついていますので、取り外すことはきわめて困難です。地面が沈下した場合、束が下方にひっぱられます。④のオリジナル束石は、束石の本来の用途である束を地面に触れさせないという目的と限りなく小型という2つの条件を満足しています。高さは7センチ、17センチ角です。 束に関しては、当社ではオリジナル調整束や束のカットサービスなどがあり、DIY未経験の方でも作りやすいシステムになっています。
今日はキットデッキ魅力分解 作りやすさ編の5回目です。 「最適化された部材」について述べます。 ウッドデッキの構成要素をひとつづつ見ると、下部から ①束石、②束、③大引き、④取付金物、⑤床板、⑥利用するビス、⑦塗料(ハードウッドの場合は必要なし) 他に作るときの補助に利用するものもありますが、基本的には7つの部材からなりたっています。 これを整理しますと 1.①束石 材質・素材はコンクリート 2.②束、③大引き⑤床板 材質・素材は木材 3.④取付金物、⑥利用するビス 材質・素材は金属 4.⑦塗料 材質・素材は液体の塗料 と4つの素材からなりたっています。非常にシンプルなものですね。ただ、作り方・工法はいつくかの方法がありますので、それによって難易度は変わると思います。 ここで重要なのは当社のキットデッキの場合は、発売以来30年以上が経ち、これまでに改良を加えてきました。そして利用する素材や形状も改良してきました。 そのため、DIY未経験の人が作るウッドデッキに最適な部材・部品になってきています。もし素材を自分で調達して作る場合は、 どのような工法でつくるか、束石はどんなタイプのものを購入するか、木材は針葉樹か広葉樹のどちらを選ぶべきか、取付金物はどれを選ぶか、ビスはどのメーカーを選ぶか、塗料は自然系のものか、水性か油性か、などを自分できめなければなりません。すべてのものを決定するには時間がかかりますぎ、判断も誤る可能性もあります。 さて、次回はそれぞれの部材が他の物とくらべて良いのかを説明します。今回はあくまでも最適な部材部品をプロが選んでいるということをお話しました。
昨日は「ウッドデッキの日」ということで、SNS担当の私は大忙しでした。ホームページ、ブログ、インスタグラム、Pinterestなどに投稿しました。社員にも、この記念日について個人のSNSで何らかのアクションをするように依頼していました。 さて、ウッドデッキを当社のビジネスにしたいと考えたきっかけがあります。それは、大阪商工会議所が企画した「流通業米国サマースクール」に参加したときのことです。昭和58年8月20日から31日まで、米国の西海岸を旅行し、将来的に通販で販売する可能性のあるクラフト商品を探る目的で参加しました。写真の日付にもあるように、ツアーの最終日近くに訪問したサンフランシスコの大型ショッピングモールでショックを受けました。写真のように木材だらけだったのです。当時、日本では木材は古臭いものや腐るものというマイナスのイメージばかりで、消費者からも敬遠されていた資材でした。 しかし、木材業の当社は、これらの木材景観施設をビジネスにしたいと熱望しました。住宅にも使えると考え、ウッドデッキを仕事にしたいという思いが生まれたのです。写真のようなボードウォークが、今の私たちの仕事につながったきっかけです。
本日は「ウッドデッキの日」です。当社がウッドデッキを開発し製作した頃は、デザインも悪くコンセプトもよくなかったため、誰も注目しませんでした。1979年に豊中の社長宅に設置しましたが、その目的は間伐材の利用でした(ウッドデッキを設置された家庭の生活を豊かにしょう、便利にしようというのではなく、余っている間伐材を利用するためというものでした)。翌年の大阪国際見本市には、間伐材の商品を多数出展しましたが、デッキは出展しませんでした。 その後、国際花と緑の博覧会の前には米国産の木材(レッドウッド、米松、防腐したヘムロック)を利用してウッドデッキらしくなってきました。そのため花博でもメインデッキを始め何カ所も施工させていただきました。その後、DIY未経験の人でも簡単に作れるキット商品を開発し、注目を集めるようになりました。時代の流れや流行に合わせ、たえず改良してきて、現在に至っています。近年、ウッドデッキの普及やビルに木材を使うようになってきたことは、感慨深いものがあります。 現在は、当社の設計施工部門と、自分で作るキット商品の2つの系統のウッドデッキを製造販売しています。
明日、4月18日は「ウッドデッキの日」でございます。この日は、日本記念日協会や様々なウェブページにおいてもご案内されておりますが、実は当社が登録したものでございます。当社は、日本で初めてウッドデッキを施工し、日本で初めてキットのウッドデッキを開発発売し、またウッドデッキの定義を考えたパイオニア的存在でございます。このような経緯から、我が社は記念日を登録すべきと判断し、その手続きを完了させました。なお、ウッドデッキという呼称についても、商標登録を申請したところ、単純な「ウッド」と「デッキ」という2つの単語では登録が拒否されたため、「キットデッキ」という名称で登録することができました。なかなかの難関でしたが、当社の情熱と努力が実を結び、記念日協会からの認定を受けることができました。当時はマスコミでも大々的に取り上げられ、広く知られるようになりましたが、近年ではその影響力がやや低下しているようです。おそらく、我々の生活にすっかり定着したからこそ、当たり前のものとして受け入れられるようになったのでしょう。 かつての当社のキャッチフレーズは「憧れのウッドデッキを自宅に」というものでした。そして、自宅にウッドデッキを設置する方法には、大きく分けて3つあります。ひとつは、業者に依頼する方法。もうひとつは、自分で設計し材料を購入して自作する方法。そして、最後に、キット商品を購入して組み立てる方法です。当社では、このうち1と3をビジネスとして展開しております。とはいえ、ここ最近では、一般の方々のDIYの技術力が向上してきており、当社も2の分野に進出することを検討しております。我々は、常に時代に沿った最良のサービスを提供していくため、さらなる進化を目指してまいります。 この文章は、文案を考え作り、チャットGPTに「格調高く作りなおして」と頼んだ結果このようなものになりました。少し違和感がありますが、事実です。フェイスブック担当者
今日は「決闘の日」となっています。 慶長17(1612)年旧暦4月13日、美作の浪人・宮本武蔵と細川家指南役・佐々木小次郎の決闘が、豊前小倉沖の無人島・巌流島(舟島)で行われた、ことからこの日をそう呼んでいます。 当社のホームページに「ちょっとおかしな木のおはなし-巌流島の決闘」というページかあり、宮本武蔵が巌流島での決闘で勝った理由が木材であることを書いています。 興味のある方はぜひごらんください。https://wood.co.jp/10-chishiki/okashina/5-ganryushima.htm
今日はキットデッキ魅力分解 作りやすさ編の4回目です。 「とても便利な調整束」について述べます。 実はウッドデッキを作るのに一番困難なことは束石の設置です。いくらDIYに慣れた方でも、エクステリア業者でも簡単にできることではありません。地面というのは必ずしも水平でないので、束石を同じ(レベル)高さに保つ事が困難なのです。そうなるとその上に束を置き、大引きを載せると微妙に高さが異なってきます。 キットデッキが評価が高く、人気があるのはここの束石を含めた床下構造が比較的簡単・簡素になるよう考えられているからです。4コマの図をごらんください。 1.は束を置きます(土を固める程度で簡単に置きます) 2.は4つの束石に束を載せ、大引、床板を置き、水準器で水平にします。この時に調整束でそれぞれの高さを調整するのです。 3.大引きをビスで固定します。 4.床板を貼ってゆきます。 以上の行程で床板はDIY初めての方でも水平にすることができます。 調整束は写真のように高さが収縮します。この調整束は部材としても販売予定です。
今日はキットデッキ魅力分解 作りやすさ編の3回目です。 「よくできた付属品」について述べます。 ハードウッドのウリン、アマジンジャラ、イタウバなどを利用したキットデッキシリーズには写真のように同梱されたものが付いています。 ・マニュアル ・SNSビス ・ビット ・スペーサ ・キャンバー ・おためし木材 などのものが入っています。ハードウッドは非常に硬い木で、初めてDIYをする人にとってはビスを打ち込むことは困難です。いきなり床板に練習なしにビスを打ち込んだら必ず失敗します。ビスが折れたり、途中で止まり、入れることも抜くこともできなくなったりします。そのため事前に「おためし木材」を利用してビスの打ち込む練習をしてもらうようにしています。 また、スペーサーも同梱されていますので、床板と床板の隙間を決めるのも簡単です。 また、キャンバー(楔(クサビ))も入っていますが、硬い木材を微妙にそろえる場合などには重宝します。 購入されたお客様からも、このような付属品が役に立ったという方も多いです。
今日は、当社施工のお話です。実は27年前にカーポードデッキを施工させて頂いたお客様からの 再注文です。貝塚市K邸です。27年越しのリピーターさんということですね。 前回はすべてルレッドシダー製で施工させていただきました。レッドシダーで27年もの長い間利用できるというのはすばらしいことです。 お客様のメンテナンスのおかげだと思います。木材はレッドシダーの節なし材です。 床板、根太、手摺柱の頭や笠木など何の問題もありません。まだ数年は利用に堪えるぐらいです。 ただ柱脚部、根元が若干腐朽しています。すこしといえどもこれだけの構造部を支える部分ですので、 施主様がご心配されるのも無理はありません。それで前面やりかえということになつたのです。 当社では「レッドシダーデッキの耐用年数は10~15年程度」と話していますが、20年超のデッキもときおり見かけます。 写真はレットシダー製(格子の手すり)と施工した鉄骨製(横ストライブ手すり)です。
報道がありましたね、万博の入場券。でも、8000円は高いですね。 先の万博では800円(当時の私の協会の月給は4万円でした)から換算すると5,000円〜6,000円ぐらいだと思います。 関西万博は、絶対に赤字になることはないと思います。いくつかの万博を内側から経験したからこそ、確信しています。考え直さないと、入場者数に悪影響を与えると思います。 さて、今日の大阪万博で出会った思い出の人は、当時16歳のミンケというかわいい子です。彼女は最年少の舞踏家でした。その後、インドネシアでミス・セレベスに選ばれました。日本であれば、ミス北海道のようなものですね。一度、私が住んでいたジャカルタの社宅に友人らと訪れてきてくれたことがあります。ほんとうに驚き、有頂天になったことを思い出します。ミンケのサイン帖 https://wood.co.jp/indonesia/expo/minke.htm
「'70年の大阪万博で出会った思い出の人」 私の20代の最も親しい友人で、インドネシア館の公式通訳をしていた住原治男くんです。私たちは同じ年齢で、彼は天理大学のインドネシア語学科を卒業しており、インドネシア館の基礎と文法を理解していました。そのためインドネシア人たちが話すジャカルタ弁(東京外大のインドネシア語学科の学生でも理解できませんでした)もマスターしていたため、最強の通訳でした。二人とも英語が話せなかったため、意気投合しました。彼の神戸の大きな自宅は天理教の教会も兼ねていて、私は何度も遊びに行きました。頻繁に留学生を招待するパーティがあり、招待されていました。その後、留学生問題に関わってゆくきっかけにもなりました。 私がインドネシアに駐在していた頃には、彼は運び屋として何度かジャカルタに来てくれました。1970年から1973年の当時、インドネシアへの国際郵便は非常に悪く、写真付きのカレンダーなどはほとんど届きませんでした(日本のカレンダーは写真が美しいのでインドネシアでは貴重品でした)。そのため、私は両親に頼んで、石鹸や日用品、書籍、文具などを日本から持ってきてもらいました。ジャカルタでは、私たちは二人で怖いものなしでよく遊びました。 50歳の時、彼は病気で倒れ、病院から私に会いたいという連絡がありました。私は出張から戻ってすぐに彼の元へ駆け付けるつもりでしたが、出張先で彼が亡くなったことを知りました。彼が亡くなったことは、私にとって初めての親しい友人の死であり、強い悲しみと後悔を感じました。 He( Haruo Sumihara) was my closest friend in my twenties. He worked as an official interpreter for the Indonesian Pavilion. We were the same age and had both graduated from the Indonesian language department at Tenri University, so he had a good foundation in Indonesian and understood the grammar. Moreover, he had mastered the Jakarta dialect that even students of Indonesian language departments at Tokyo University of Foreign Studies could not understand, making him the strongest interpreter. We bonded over the fact that neither of us spoke English. I visited his large home in Kobe (which also served as a Tenrikyo church) many times, and was often invited to parties he hosted for exchange students, which inspired me to volunteer for international students. When I was stationed in Indonesia, he came to Jakarta several times as a courier for me. At the time (1970-1973), international mail to Indonesia was very poor, and items like calendars with photos hardly ever arrived (Japanese calendars were considered valuable in Indonesia). So I asked my parents to bring me daily necessities like soap, books, and stationery from Japan. In Jakarta, the two of us played fearlessly together. When he was 50 years old, he fell ill and contacted me from the hospital, saying he wanted to see me. I was planning to rush to see him as soon as I returned from my business trip, but I heard that he had passed away while I was still away. It was the first time I had lost a close friend, and I felt a deep sense of sadness and regret.
今日は植物学の日ですね。また近年ではマキノの日というのもでてきています。ちょうどNHKの朝ドラ(らんまん)を配信していますし。 この前も私市の大阪公立大学付属植物園に撮影に行き、ヘラノキを撮ってきました。学名をみたらmakinoがついています。 すばらしいですね、名前がラテン語の学名の中についているのは、1500種類の植物についているそうです。 さて、私は高知の牧野植物園も訪ねたことがありますし、毎日パソコンでネットや社内データーベースで樹木の学名と関わっています。なにかと牧野博士には世話になっています。 写真は今朝の通勤途中の道路ですが、ツツジがいたるところに植栽されていて、道を歩くのが楽しいです。富田林市内はこのように美しいですが、堺市に入ると殺風景になります。
「'70年の大阪万博で出会った思い出の人」 彼女はインドネシア館のナニーさん。民俗舞踏家は15人ほどいましたが、彼女だけ雰囲気が少し違っていました。22歳と比較的年齢も高かったこともあり、落ち着いていましたが、ほとんどがイスラム教徒であった中で、彼女だけがキリスト教徒でした。私には彼女が最も魅力的に見えました。彼女は豊中の自宅に遊びに来た時に、庭が好きだと話していましたが、私がジャカルタの自宅を訪れた時に、彼女の言っていたことが理解できました。緑が多い同じくらい広さのよく似た庭でしたから。 ナニーのサイン帖 https://wood.co.jp/indonesia/expo/nanny.htm
昨日は「ウッドデッキの日」ということで、Webページ、2つのブログ、2つのインスタグラム、Pinterest、2つのFacebookに投稿しました。会社の社員にも、この記念日について個人のSNSで何らかのアクションをするように依頼しました。 このような場合、Twitterを利用する方が効果的だと思いますが、TwitterやLINEは私には合わず、うまく利用できません。 写真は40年前に大阪商工会議所のサマーツアーで訪れたサンフランシスコで撮ったもので、このボードウォークを見て、ウッドデッキを仕事にしたいと思ったきっかけです。
本日は「ウッドデッキの日」です。当社がウッドデッキを開発し製作した頃は、デザインも悪くコンセプトもよくなかったため、誰も注目しませんでした。1979年に豊中の自宅に設置しましたが、その目的は間伐材の利用でした。翌年の大阪国際見本市には、間伐材の商品を多数出展しましたが、デッキは出展しませんでした。 その後、花博の前には米国の木材を利用してウッドデッキらしくなってきました。そのため花博でも何カ所も施工させていただきました。その後、DIY未経験の人でも簡単に作れるキット商品を開発し、注目を集めるようになりました。時代の流れや流行に合わせ、たえず改良してきて、現在に至っています。近年、ウッドデッキの普及やビルに木材を使うようになってきたことは、感慨深いものがあります。私自身も、会社人生50年のうち三分の二をウッドデッキと共に歩んできました。 現在は、当社の設計施工部門と、自分で作るキット商品の2つの系統のウッドデッキを製造販売しています。
チャットGPTを毎日利用しています。間違いが多いのでチェックが必要ですね。今日はフェイスブックに利用しました。 明日はウッドデッキの記念日ですが、それでこのように使いました。 ▼質問・投稿 下記の文章を格調高い文章にして 明日4月18日はウッドデッキの日です。日本記念日協会やその他のwebページに掲載されていますが、実は当社が登録したのです。日本で最初にウッドデッキを施工し、日本で最初にキットのウッドデッキを開発発売し、またウッドデッキの定義を考えた当社としては、記念日も登録すべきと考え登録しました。それまでにウッドデッキという言葉を考え商標登録も申請したのですが、「ウッド」と「デッキ」という2つの単純名詞では、登録拒否になりました。その代わりにキットデッキは登録できました。記念日協会に申請し、認められるまでは担当者としては緊張していました。 おかげで認定され、最初の数年はマスコミなどにも取り上げられましたが、近年はあまり影響がないみたいです。あたりまえのように普及したからでしょう。 当時のキャッチフレーズは「憧れのウッドデッキを自宅に」というものでした。 自宅に設置するには3つの方法があります。1.業者に依頼する。2.自分で設計し材料を購入して自作する。3.キット商品を購入して組み立てる。 当社ではこのうち1と3をビジネスにしております。ただ最近は一般の人のDIYの技能が上がってきているので、当社も2の分野にも進出しようと考えています。 ▲答え 『明日、4月18日は「ウッドデッキの日」でございます。この日は、日本記念日協会や様々なウェブページにおいてもご案内されておりますが、実は当社が登録したものでございます。当社は、日本で初めてウッドデッキを施工し、日本で初めてキットのウッドデッキを開発発売し、またウッドデッキの定義を考えたパイオニア的存在でございます。このような経緯から、我が社は記念日を登録すべきと判断し、その手続きを完了させました。なお、ウッドデッキという呼称についても、商標登録を申請したところ、単純な「ウッド」と「デッキ」という2つの単語では登録が拒否されたため、「キットデッキ」という名称で登録することができました。なかなかの難関でしたが、当社の情熱と努力が実を結び、記念日協会からの認定を受けることができました。当時はマスコミでも大々的に取り上げられ、広く知られるようになりましたが、近年ではその影響力がやや低下しているようです。おそらく、我々の生活にすっかり定着したからこそ、当たり前のものとして受け入れられるようになったのでしょう。 かつての当社のキャッチフレーズは「憧れのウッドデッキを自宅に」というものでした。そして、自宅にウッドデッキを設置する方法には、大きく分けて3つあります。ひとつは、業者に依頼する方法。もうひとつは、自分で設計し材料を購入して自作する方法。そして、最後に、キット商品を購入して組み立てる方法です。当社では、このうち1と3をビジネスとして展開しております。とはいえ、ここ最近では、一般の方々のDIYの技術力が向上してきており、当社も2の分野に進出することを検討しております。我々は、常に時代に沿った最良のサービスを提供していくため、さらなる進化を目指してまいります。』 ■私 少し違和感がありますが、会社公式ベージの方に利用しました。 さらに ▼同様の文章をSNS投稿用に直して ▲答え 『明日は「ウッドデッキの日」🌳🌞 当社が登録した日本の記念日で、最初にウッドデッキを施工し、キット商品を開発した当社としては記念すべき日です。自宅に設置するには3つの方法があります。業者に依頼したり、自分でDIYしたり、キット商品を購入して組み立てたり。当社では業者とキット商品を提供していますが、最近はDIYの技能が上がってきているので、自分で作る方も増えています。皆さんもぜひウッドデッキを楽しんでください!🙌🏻』 ■私 バッサリと思い切ってカットしますね。これいインスタに利用します。 写真はエストニア レストランの道路上のウッドデッキ
「'70 EXPOで出会った思い出の人」 インドネシア館のアートな壁の前で仲良く写るのはドイツ語通訳のナナ(nana)さんです。3~4歳年上だったと思います。自宅にも遊びに来ましたし、よく話をしました。インドネシア駐在中に英会話の勉強のために彼女に個人教授をたのみ半年ほど彼女の自宅に通いました。彼女結婚前でしたので事前にレッスン受けるにあたっては、「いたずらはダメよ」と誓約させられました。nakal(ナカール)という単語を使っていましたが、いわゆる不貞、不埒という意味があります。そんな気はなかったのですが、日本人ならそんなことを言わないのに、はっきり言うなと驚き、感心したものです。 もう会えない人になっていますが、2005年にジャカルタであった同窓会で35年ぶりに会えたことはよかったです。
私の仕事がら毎日「今日の記念日」を調べていますが、(来週にはウッドデッキの日があります )今日は「決闘の日」となっていますね。 慶長17(1612)年旧暦4月13日、美作の浪人・宮本武蔵と細川家指南役・佐々木小次郎の決闘が、豊前小倉沖の無人島・巌流島(舟島)で行われました。このことからこの日をそう呼んでいます。 当社のホームページに「ちょっとおかしな木のおはなし-巌流島の決闘」というページかあり、宮本武蔵が巌流島での決闘で勝ったことは木材と大いに関係のあることを書いています。 興味のある方はぜひごらんください。https://wood.co.jp/10-chishiki/okashina/5-ganryushima.htm
「'70 EXPOで出会った思い出の人」 私と一緒にいる人、ヨピー(Jopi)さんといいます。この人ともよく話をしました。インドネシア館の警備担当です。当然インドネシア語の先生にもなりました。 物静かでもありますが、たんたんと話をする人で、日本語も上手でした。 残念ながら万博終了後一度も会っていません。 この青のシャツがお気に入りでよく着ていました。
「カラタチの花」とEXPO70の思い出 今日、散歩中に民家の垣根に小さな白い花が咲いているのを見つけました。それは「カラタチの花」でした。 私が10歳の頃、島倉千代子さんの「からたち日記」という曲が130万枚ものヒットを出し、ラジオから頻繁に流れていました。当時、海外の曲に憧れていた私としては、歌詞やメロディーも感覚的に合わず、また途中で台詞が入るのも嫌いでした。しかし、あまりにも頻繁に聴くことになったため、歌詞や「カラタチの花」のイメージが頭にこびりついてしまいました。 その後、EXPO70で島倉さんと初めてお会いしたときは、「カラタチの人やな」と思いました。その後も何度かお会いしましたが、いつも不本意なことがありました。 1坪もない楽屋事務所の中で、私は本人の前でインスタントコーヒー瓶からスプーンですくって、同じようにクリープ壜からもコーヒーを取り出し、紙コップに入れ、ポットからお湯を注いで混ぜてコーヒーを作り、出しました。しかし、当時の私にとっては最も嫌な仕事でした。島倉さんは嫌がらずに飲んでくださったのですが、若い芸能人の中には飲んでくれない人もいました。 カラタチの花を見ると、島倉さんと万博の楽屋事務所を思い出します。
「70EXPOで出会った思い出の人」 1970年の万博で出会ったスカサニーさんは、インドネシア館の踊り子で最も人気のある子の一人でした。彼女は19歳の学生ながら選ばれて来日したのです。豊中の自宅にも遊びに来たことがあり、私の家族も彼女をよく知っています。万博終了後のその年、私は木材関係のツアーでバリ島を訪れました。当時のバリ島は、まだ民家に電気がなく、電話もホテルしかない時代でした。空港でタクシーに乗ってスカサニーの家に行きたいと伝えると、タクシーの運転手は私をそのままスカサニーの家に連れて行ってくれました。また、ホテルなどで販売されている絵葉書を見ると、バリの踊りのモデルはほとんどがスカサニーです。当時若いもかかわらず、すでにスターでした。夜にはランプひとつで家族と一緒に歓談していて、写真のフラッシュで部屋全体が見えたことを覚えています。 帰国するときには、スゥエントラという友人(この人もジェゴッグで有名)や、ブーランなども誘って見送りに来てくれました。インドネシア駐在中にも、バリに出張した時にデンパサルの自宅に遊びに行く時間を見つけていました。 風の噂で2年後にはオーストラリア人に見初められ、結婚し、現在はメルボルンで家族と優雅に生活しています。数年前、偶然Facebookで再会し、その場で電話してからも、私たちは今でもここで連絡を取り合っています。スカサニーさんは美人で賢く、すでに人気者であるにもかかわらず、偉そうな態度を取ることがなく、本当に素晴らしい人でした。
先にupした社長室のリフォーム。先日から完成して、荷物を整理しておき直しました。以前はさまざまな問題を抱えていた社長室、ほとんど解決しスッキリしました。 天井まで積み上げていたコンクリートブロックは腰の位置までにし、長い板材を支えるのは特性の箱。2人の社員が親身になって企画、片付け、レイアウト配置、設置してくれました。 大阪万博終了後の処分販売で購入し、父と私で70年以上利用していたカエデ製のデスクは重すぎて運べないため、3つに切断されて焼却炉に。泣いて馬謖を斬るみたいな断捨離のような心境です。 副店長の黒猫チョビはウッ病のためエリザベスカラーをつけています。
4月になりましたね。桜があちこちで咲いていると、学生時代の新学年になった気分です。あらたな事にチャレンジしたくなります。そこで以前挫折した事などをいくつか新たに始めました。 SNSは仕事柄しなければなりませんが、それほど自信もなく、FB、インスタ、ブログの3つで発信していますが、ツイッターとピンタレストは数年前に開始したのですが、続きませんでした。ツイッターは炎上が怖いのでこれからもしないと思いますが、ピンタレストは4月から始めました。当然、いま、「フォロー中:0 人」とでています。会社ページですが個人写真なども掲載していきます。SNS疲れがでないように、楽しみながら続けるつもりです。アカウトンはwoodcojpです。で、アドレスはhttps://www.pinterest.jp/woodcojp です。