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日本人と木

 

鳥取大学農学部生物資源環境学科教授 古川郁夫

● 基層文化にかかわったクリ古代日本人の暮らしを知る手掛かりが、遺跡や遺構からたくさん発見されています.青森県の三内丸山遺跡(縄文前期から中期の大規模集落遺跡)からは、直径が1メートル余りの巨大なクリの柱痕が、2メートル4方位の小さな矩形の4隅に配置されて発見されました。
これが何のために使われたのかは、大変興味深いことです。
この太さと、間隔から推定して、これは住居と言うよりは、むしろ高い塔のような構造物ではなかったかと推定されています。
クリの出土は、東海・中部地方以北の縄文時代から古墳・奈良時代にかけての遺構や遺跡に圧倒的に多く、逆に西日本に少ないのが特徴です。
出土しているクリは構造材、建築材らしいものが多く「縄文のクリ」として考古学関係者の興味を引いています。
これは、その後の時代の西日本で急に使われ始めるスギやヒノキと比べると、その役割や重要性の点において、何か共通する点があるのかもしれませんまた、三内丸山遺跡からは、大型掘立て柱式建築物の柱穴も検出されています。
縄文時代に大型の掘立て柱式建物があったことも驚きです。

クリは現在でも、その実は重要な食糧源であり、その材は極めて耐朽性に優れているので、家屋構造材の大黒柱や床を支える束材として、あるいは線路の枕木として重宝されています。
クリの有用性については、何千年も前から知られており、その使い方は昔も今も変わることなく現在にまで伝承されています。
このように、クリは、原始の採取経済時代において、大変重要な資源植物であったことは間違いありませんが、そのように大切な木は、たぶん当時の人にとって神聖な木であった可能性があります。
クリの巨木には、何か宗教的な意味が込められていても不思議ではありません。
ところで、三内丸山遺跡出土の巨大なクリ材やゴミ捨て場から採取されたクリの実をDNA鑑定したところ、巨大なクリ材は天然木であり、クリの実は同一木から採取されたものか、あるいは栽培された可能性のあることも分かりました。
では、東日本を中心として発達したブナ・ナラ林での採取経済とはどのようなものだったのでしょう。
考古学的生態学調査から分かったことは、温帯落葉樹の森にはクリ、クルミ、ブナ、トチノキ、ドングリ類などの堅果類を始め、ヤマブドウ、アケビ、マタタビ、クワなどの果実類、ナメコ、マイタケ、イワタケ、エノキダケなどの豊富なきのこ類、ワラビ、ゼンマイ、ウド、ワサビ、カタクリ、クズなどの山菜類、それに加えてサケ、マス、イワナ、ヤマメ、ニジマスなどの多彩な川魚類、しかも山にはクマ、シカイノシシなどの大型獣といった食料資源が豊富にあり、それを縄文の人達は巧みに利用していました。
ところが当時の西日本にはそのような食糧資源が乏しかったので、人口も少なく、文化的にも遅れた地域であったと考えられています。
小山修三氏(1984)による縄文時代の人口推計によれば、人口の集中は圧倒的に東北地方を中心とした東日本に偏っていました。
まさに、縄文文化の中心は東日本にあり、逆に西日本は文化的僻地だったのです。
このような豊かな採取社会経済の象徴として、巨大なクリの柱を高く聳え立てた構造物が存在したのでしょう。
そう考えると、クリはやはり、縄文人の豊かな暮らしのシンボルだった可能性があります。
さらに、豊富な食糧に支えられた集落の暮らしからは「ゆとり」が生まれ、そのゆとりが多彩な文化を生み出したのでしょう。
三内丸山遺跡から出土している漆塗りの櫛や精巧な織物のポシェット(袋物)、装身具類をはじめ、亀ヶ岡遺跡から出土したあのエネルギッシュでおおらかな土偶の女性像などが、その一端を示しています。
このことは、太平洋の孤島イースター島に残る巨大な石像とも共通しています。
ポンティング(1994)著の「緑の世界史」によれば、太古のイースター島には今では考えられないような巨木の茂る深い森があり、その島の周りの海にはたくさんの魚介類が生息し、島民は十分な森の幸と豊かな海の幸に支えられて安定した暮らしをしていたことが、近年の遺跡調査から分かっています。
その豊かな暮らしの中から生まれた「ゆとり」が、あのような巨大な石像を刻み、運搬し、そして設置するのに必要で十分な時間と知恵と技術を生んだのだと考えられています。
ところが、ひとたび島の森林資源が減ると、まず食糧資源が減り始め、島民は食糧争奪に明け暮れるようになりました。
当然、石像を作るゆとりなどもなくなり、遂には、島民も資源もそして文化までもが枯渇滅亡し、そのまま永遠の時の流れの中に沈んでしまったのです。
今も、島の石切り場には作りかけの石像が放置されたままになっています。
豊かな食糧資源に支えられた集落や社会は、豊かな独自の文化を生み出すエネルギーがあります。
そうして生まれた文化のごく一部を私たちは発掘という形で垣間見るのです。
三内丸山遺跡の巨大なクリの柱痕は、当時の文化の勢いを示していると言えるでしょう。

豊かな採取経済を支えたブナ・ナラ林文化は、やがて西日本に始まる稲作を主とした定住農耕文化の大きなうねりの下に隠れ、歴史の表舞台から見えにくくなるのですが、庶民の暮らしとして、その後も脈々と東日本を中心に伝えられてきました。

日本文化の基層を形づくる重要な源流の一つとして、また東日本を代表する文化様式(生活スタイル)として、今なお存在し続けているのです。

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