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住宅インテリアはなぜ和風回帰に向かうのか

直線文化と曲線文化を考える

最近の住宅のインテリアには和風を復活する傾向が見られるようになった。なぜだろうか。私たちは住宅産業が始まって以来、約半世紀の間、住宅の洋風化を懸命に追い続けて来た。それが進歩だと信じていたからであった。だが本文にあげた2組のイラストのように直線文化と曲線文化に整理すると和風回帰への謎が解けそうである。長い間、日本人の血の中に流れていたDNAがようやく目覚め始めたようである。 (イラストも小原二郎先生の描写によるもの)

庶民の住宅の歴史

近ごろ昭和30年代の雰囲気を懐かしむムードが高まっているという。東京都大田区南久が原には「昭和くらし博物館」があって、当時の公団住宅の室内とそこに置かれていた家財道具が並べられている。それを見ると室内の仕上げも装置や道具も、現在の住宅と比べると、かなり低いレベルのものであることに気づく。だがこの部屋も道具類も戦前の昭和初期の部屋と比べると、まだ上等の部に属するものであったことがわかる。

私は、昭和初期には学生であったが、当時の東京で半数以上の人達が借家に住んでいた。そのころの建築費用は持家なら2千円くらい、借家なら千円で建つと言われていた。金額の正確さはさておいて、持家の半分ということからも当時の借家がどんなレベルのものであったかを想像できよう。それは在来工法の木造長屋建てでその中に置かれていた家具といえば、たんすと下駄箱とちゃぶ台だけといった簡単なものだった。

戦前の日本の庶民の家は、現在では想像できないほど貧弱なレベルのものであった。おそらく、江戸時代の裏長屋から少しだけ抜け出したレベルと言ったら、実態に近いかも知れない。

稀に、建った金持ちの家に洋家具の応接セットが置かれていて、それを設計する人を室内装飾家と呼んだ。庶民の家は畳敷きに座ぶとんを置いただけで、椅子などはなかったのである。以上に述べたのは、戦前の庶民の家の貧弱さについてであったが、それが戦争によって焼き払われたから、その後の10年余はトタン屋根の仮小屋住まいを余儀なくされた。

だから、昭和30年になって住宅公団が建てた団地住宅は、狭い2DKのコンクリートの箱であったが、理想の家に見えた。そこに入居して団地族になるために、何度も徹夜で並んでくじを引いた人も多くいたが、それも今では昔話になって記憶から埋れてしまった。

戦前にも鉄筋コンクリートの住宅はあった。同潤会のアパートがそれだが、これは、ごく一部の限られた階層の人達の住いであった。それで思い出したことがある。私が学生だった時、東京の明治神宮前に同潤会アパートがあって、詩人で有名な堀口大学先生が住んでおられた。その話を聞いて、私は遠くから表札を見ただけで帰った。そして、文化人とはこういう所に住むのかと感心した記憶が強く残っている。

ところで数年前に、築後80年を経たその建物を見せてもらう機会があった。堀口先生の家は広さが40㎡もなかったことを知って驚いた。振り返ってみるとわれわれの住宅の歴史は意外に短かくて、庶民の住まいに日が当たり始めたのは、住宅産業という言葉の生まれた昭和40年代以降のことであることに気づく。ようやく、半世紀を越えたところなのである。

昭和初期の住宅
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