昨年明るい話題が少ない中、多くの国民が希望と感じたのが、皇室秋篠宮家の悠仁様のご誕生であった。そしてお印(しるし)には高野槙が選ばれ、多くの報道がされたので、一躍高野槙が有名になった。高野六木として知られているが若い人たちではテレビで初めて知った人も多かったのではないだろうか。
お印とは、天皇や皇族方が、身の回りの食器や調度品を区別するための目印で、天皇陛下のお印は「榮」の文字だが、最近は植物が多く用いられている。樹木としては皇后さまし白樺、皇太子さまが梓(ヨグソミネバリ)、愛子さまが五葉躑躅(シロヤシオ)、秋篠宮さまが栂、眞子さまが木香茨(もっこうばら)で、木としては低木か中木、あるいは草花であった。私は悠仁様がお生まれになるまでにお印にはどのようなものになるか想像してみた。最初に草花ではなく大きくなる木で、クスではないかと考えた。しかしクスの悠々としているところはいいのだが、無骨すぎる。そこで次にすくすくと伸びる杉ではないかと考えた。社内では予想は杉だと公言していた。外れてしまったが、高野槙も昔はスギ科に入れられていたこともあるから、当たらずも遠からじと自分自身で慰めた。
この発表があって、すぐに高野山に遊びがてら、取材に行った。金剛駅から特急こうやに乗ったわけだが、高野下から極楽橋までは、高山鉄道のような感じで、スリルがある。高野山では一の橋付近の供養塔周辺を散策したが、必ずと言っていいほど高野槙の枝を供えている。また、通りにはお供え用の高野槙の枝葉が道路脇のスタンドで売られている。僧坊にある高野槙の樹形はやはり世界三大庭園樹といわれるだけあって、おしゃれである。和洋どちらにでも合うだろう。
その直後林野庁の中島孝雄さんからメールをいただいた。これから訪問される方のご参考に紹介する。
女人堂の脇から国有林に入る歩道が整備されており、そこから高野槙の植物群落保護林に行くことができる。台風被害も受けているが、ほぼ純林状態の高野槙の森林を見ることができるという。また枝の採取用として、高野龍神スカイライン沿いの人工林の写真もいただいた。(左上)
高野槙は高野山だけでなく福島県から本州、四国、九州などにも断続的ではあるが分布している、岐阜県でも木曽五木として有名で、中津川市のシンボルとなっている。世界的には中生代に出現し、第三紀末までは欧州にも生育していたが、それ以後衰退し、日本だけに残った一属一種しかない珍しい木である。
材は特有の匂いで人によって感じ方は異なるだろう。保存性は中程度で、切削などの加工及び乾燥は容易。建築・器具・土木材として利用されてきて、現在では出節の磨丸太などとして生産されている。
水湿に耐える点では桧2倍以上あり、黒ずみにくい特徴があり、水を含んでも軽い。檜の硬さ、色、艶、気品などの長所と、サワラの軽さ、水湿性の長所を持った木といえる。そんなことから、木の風呂として再度評価されてきた。
樹皮は繊維質が強く、フェルトのように柔らかく温かい。水を含むと膨張し、繊維に樹脂を含むため腐りにくい。この樹皮を砕いて繊維にしたのが「槙皮(まいはだ)」と呼ばれるもの。昔は荒物屋でも売られていた。桶、井戸の壁、和船の舟板の隙間などの水漏れ防止用パッキングとして利用されてきた。
日本書記の中で、須佐之男命が「マキは棺材に」と指定しているが、事実、近畿地方から出土する木棺のほとんどが高野槙である。高貴な人用として使われ、遠く朝鮮半島にまで運ばれていた。また、木簡も高野槙が多く、文字も鮮明に残っている。木は水中や地中などの酸素が供給されないところでは腐りにくいのは理屈ではわかっているが、千年を超えて残っているのだから驚く。
文学では、この木の出現率は少ないが、それでも鴎外の「雁」、藤村の「夜明け前」、龍之介の「老年」、宇野千代さんの「淡墨の桜」、小塩節さんの「木々を渡る風」などに出てくる。夜明け前以外は庭木として登場しているが、夜明け前では木曽五木として、禁木制度のため苦しい生活状況の説明に焦点が当てられている。
高野槙は細長い葉を小さな円状に上に伸ばし、更にこの小枝は多数集まって大きな円状になる。円木(まるき)と言われ程である。また幼木の時の成長が極めて遅く、植林には不適とされている。成木になってから幹はよく伸びるが、その後は樹高が一定している。防火樹として高野山では僧坊の間に多く植えられていた。
高野槙を人に例えれば、大器晩成の努力家で、志はまっすぐ、そして高く、高所大所から物を判断し、人と人とのモメごとのクッション役になる人であろう。
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