大変なショックであった。
大阪木材工場団地の組合理事長として、又御自分の会社の経営その他について、やりたい事が山程あるとつい先日語っておられたばかりなのに--。
人生無常とは云いながら神様は余りにも無慈悲ではないか。
私の家と中川家との交遊は父の代まで遡る。
彼の尊父中川計三郎氏と私の父豊太郎との交遊は、昭和初期より始まっている。
当時私の父は古座に本拠を置いて紀南(熊野川・古座川)方面で山林業、製材業を、片や中川氏は御坊で日高川・有田川中心に木材業を、又日置の大鹿音吉氏は田辺・日置川地区を本拠にして木材業をそれぞれ営んでいたが、この三人は仕事を超えた親しい間柄となり義兄弟の契りを結んでいた。
戦争中に大鹿氏が病没、私の父もビルマに出征していたが戦後間もなく復員して又中川氏との交遊を復活していた。
昭和二十年半ば、私が東京で新しく会社を設立、走り回っていた頃のことである。
若さに任せて酒色にも精を出していたが或る夜遅く御機嫌で帰宅したところ折悪しく親父につかまった。
「中川さんの息子藤一君はお前と違って夜遊びはせず仕事一途でよくできた男だ。
乗馬も一流、歌もうまいしその上親思いで非の打ちどころがない。
少しは見習ったらどうだ」と説教された。
身近に優等生が居るのもはた迷惑な話で困ったものだと思いもしたが、藤一さんのお名前はその折私の脳裏に焼付いてしまったようである。
二七年頃父の用件で大阪四つ橋近くの和洋林産の事務所に藤一さんを訪ね、その折始めてお互いの身上を語り会った。
お住居が会社裏で奥さんや子供さん達にも紹介され、又私の姉が嫁いだ御坊の川瀬家の義兄が藤一さんと親友でもあったことから急速に親交を深めていった。
三十四年堺に工場を設立、在阪することが多くなり十日会に入会させてもらったが、特に藤一さんには父子二代のつき合い、親友の義弟ということで弟の如く親しくして戴いた。
六十三年七月中旬古座に帰る途次、天王寺発の列車で偶然御坊へ帰る藤一さんと乗り合せた。
御坊までの一時間半、お互い田舎の家屋敷をどうしたらよいか共通の問題を真剣に話し会った。
又彼は美原の組合事業についての抱負、自分の会社の運営は息子さん主体に切替え老後を考えた御坊での生活設計等々熱っぼく語られアッという間に御坊に着いて別れた事を昨日のように思いだす。
多才で優秀な彼にもう少し時を貸してあげられれば-。
思い半ばで病に倒れた彼の心情は察するに余りある。
後に残された奥さんや息子さん達、どうか悲嘆を乗りこえられて力を合せ彼の遺志を引継ぎ果されなかった思いを満してあげて戴きたい。
御冥福を祈るのみ。
合掌。