空き腹にジーンと応えるような、ひときわ張りのある甲高い声であった。
声のする方向に顔を向けると、そこに頭髪をキッチリと真中で分けて生き生きとした紳士の童顔があった。
それが私の中川さんとの初の出会いで、あるパーティーでのことであった。
何時の頃か定かではないが随分と以前のことであったと思う。
私も大抵、こまめにいろいろな会合に出席しているけれど、中川さんも又私以上に会合に出席される機会が多かったであろうと推察される。
なぜなら先程の光景にその後も度々出会ったのである。
昭和五十五年の二月、その頃活溌に活動していた合板取引所設立協議会の、会長代行に就任していただいてからは、度々声該に接する機会を得ることとなり、何かと御教導に預ることが多かった事に感謝している今日この頃である。
取引所設立の望みは断たれたけれど、若し現在取引所が先物取引を行っていたら、現在の国内メーカーや、輸入合板の状況もどんな変化をみせていたであろうか、興味のあるところである。
大阪木材工場団地協同組合理事長として、東奔西走、全情熱を注がれ組合の発展に貢献された功績は真に大なるものがある。
私も昭和六十三年の春の総会で監事として組合のお手伝いをさせていただくようになった。
僅か半年程の組合でのお付き合いで、これからいろいろとご指導をいただけると喜んでいたのに誠に残念至極の結果となって仕舞った。
誠に惜しみてもあまりある人を失い痛恨の極みである。
この度成瀬新理事長誕生に伴い、不肖副理事長の重責を仰せつかりましたが、亡き中川前理事長のご遺志を戴して、及ばず乍ら一生懸命努力いたす心算です。
何卒お見守り下さいますよう。