私はそんなに度々お会いしていたわけではありませんが、それでも時々会合等でおみかけすると、あの温和な顔を一段とほころばせながら、「やあやあ」と手をあげながら近付いてこられ何かとお話をしたものでした。
中川さんを一口でいうと、気さくで器用で気持ちの良い人でした。
そしてお顔が広く随分多岐にわたる交遊関係をお持ちでした。
従って何故こんな会合に出てられるのかなあと思うような所でお目にかかることが屡々ありました。
私が最後にお会いしたのは八月八日ロイヤルホテルでした。
塩川正十郎先生の後援会の一つである塩心会の朝食会で隣の席に来られ、いつもと全く変らない話し振りであったのに、それから一ヵ月もたたない九月五日にお亡くなりになられたと聞き本当に愕然としてしまいました。
何かの間違いではないのかと何度も聞き返したくらいでした。
私と中川さんのつき合いは、私が今の会社に入った昭和三十三年の秋からですので丁度三十年でした。
当時建設工事の基礎といえば殆んど松抗であり土留も木矢板が多く、従って材木屋さんと土建屋の資材担当者とはしょっ中会っており、見積書・注文書等のやり取りも頻繁で、食事を共にすることもよくありました。
その度毎に中川さんの話題の豊富さ、知識の深さ、皿には歌のうまさに驚かされ感心することしきりでした。
又、大変親切な方で、色々と世話をして頂きました。
なかでも、昭和三十九年私がはじめてヨーロッパへ行った時、パリ在住で画の勉強をされていた従兄弟の中川藤次郎さんに連絡を取って下さり、大変助った思い出があります。
当時は今のように一寸電話でといった簡便さはなく、こと細かに手紙で連絡を取ってもらいました。
又今のように海外旅行が当り前の時代ではなくヨーロッパなんて二度と来れないという気持ちでしたので一国一週間合計七週間位旅をしたのですがグループのみで交通会社の人がつくこともなく、そんな際に現地におられる日本の方に案内してもらえたのは、本当に嬉しいことでした。
その時、世界の切手博覧会が行われており、十点ほど買ったのですが、その夫々の切手の説明を中川さんが書いて下さいました。
さすが画家だけあってすべての切手の図柄を紙に書き、その横に説明を書かれたのには驚きました。
中川藤一さんとお顔も似ておられましたが、親切なところも同じだなぁと感心したものでした。
余り良い話ではありませんが、中川さんを思い出す時一番先に頭に浮ぶのは交通事故のことです。
もう二十年も前になりましょうか、私共の会社で古くからつき合いのある協力会社の会合で奥栄会というのがありますが、その総会が太閤園であり、会終了後パーティがありました。
その後私が中川さんを二次会に誘ったのですが、車を持ってきているということで辞退されそのまま別れました。
私は他の人と飲みに行き夜遅く帰宅しました。
所が翌朝新聞を見てびっくり、何と中川さんが出入橋の踏切りで阪神電車の終電車にぶつけて重傷を負ったと書かれているではありませんか。
早速調査して新歌舞伎座裏の灰田病院(灰田勝彦さんのお兄さん)へかけつけました。
ぐるぐると包帯を巻かれてはいましたが、命には別条なく思ったよりお元気で安心しました。
私はてっきり飲酒運転だと思い自分の方を断りながら一体誰と飲みに行ったのかと詰った所、あんまに行っておったのだとの答。
まぁそれにしても鉄の塊のような電車にぶつけておいて、この程度の怪我とは余程いのち運の強い人だと思ったのですが、そんな中川さんがこうも簡単に逝ってしまわれるなんて神様はどんなお考えなのでしょうか。
今思うだに残念としかいいようがありません。
中川さん、どうか安らかにお眠り下さい。