私が大阪木材青年経営者協議会に入会した時でありました。
大青協に入会した時の中川さんの印象は私にとって強烈なものでありました。
凄いバイタリティで実行力と指導力のある人だなあと、その迫力に畏敬を感じたものでした。
当時四十才の中川さんは大青協2代目の会長として活発に活動しておられ、次々と新しい行事企画を提案され、それを熱意と高邁な指導力によって会員諸士を動かし、見事に実行実現されていく姿に男の魅力を感じたものでした。
私が大青協に入会した年は、翌昭和三十六年(一九六一年)から木材取引がメートル制になるということで中川会長を中心に規格の研究会や実験が真剣に行われていました。
それと並行して「木材祭り」を実施し木材PRのため車による市中パレードをやろうという企画について活発な討議、そして市中パレードの見事な成功にと多数の会員の皆さんが中川会長を中心にして生き生きとして活躍されている様子を見て、私はただ興奮して何が何だか分らないが一生懸命大青協の活動に参加する気になったことを思い出します。
そして此の「木材祭り」が終るや直ぐに、映画「木材大阪の歩み(大青協製作)」を携えて林青連(日本木青連の前身)への加入勧誘のため西日本各地の会団を訪ねました。
映画を上映した後、出席会員一人一人が大青協の活動ぶりを報告することになりましたた。
大青協に入会して一年も経っていない私は緊張し顔を真赤にして、とちり乍らも胸を張って大青協での活躍を発表したことも忘れられません。
私は大青協の活動と会社の業務と両立出来るだろうかと戸惑い乍らも大青協に出席すれば何か新しい情報が得られ、より高度な人生が開けるような気がして出来る限り出席したものでした。
この様に中川さんの熱意と男の魅力によるムードが大青協の基礎となっていると思います。
中川さんと知り合いになれたお蔭で大青協を通じて多くの知人、友人を得ることが出来ました。
私にとってすばらしい事であります。
中川さんは常に時代の流れを素早く読みとり木材業界がその変化に対応するようにアクションを興して来られました。
時代の流れの先端には必ず中川さんの名前があり、そして業界に新風を吹き込んでおられました。
木材業界にとって、こんな大きな器の中川さんをなくした事を残念に思います。
心からご冥福をお祈り致します。