改めて人の命のはかなさにしみじみ淋しく感じ、ご生前の元気なお姿が目に浮かんでまいります。
人生一度は遭遇する悲しいお別れでありますが、ご遺族の皆様には心よりお悔やみ申し上げます。
故藤一様の郷里和歌山県御坊にある日高中学校の後輩でありましたが、すれ違い入学で、同じ在籍ではありませんでした。
同郷の小さな町故、町中知り合いと云う感じで特に中川様ご一族とは同じ通りの近所で、親しくして頂いて居りました。
当時(昭和十三~四年)のことはおぼろげの思い出でありますが、たしか乗馬姿の颯爽とした「エエ格好」の先輩のお姿が記憶に残って居ります。
そして、大学時代は乗馬部で活躍したと、誇らしげなお話を聞いたこともありました。
特に私の印象には、昭和初期のモガ・モボの時代のモボ(モダンボーイ)のイメージが残っています。
中学校卒業後は大学生活・戦時中の波瀾・戦後の混乱、そして私も大阪にて事業を始めましたので、お目にかかることもございませんでした。
ご縁はほんのちょっとしたことから再び始まりました。
それは、とあるマネージメントセミナーで先輩より「敦次さん、君も来ていたのか。
」と声を掛けて頂き、忘れかけていた絆が神のお引き合わせにて再び結ばれたのです。
ある時は、上京される空港での一時にご事業の話や木材協同組合のこと、団地のこと等を、又「君の家の木材は、俺の会社が納めたのだよ。
」と思いがけない話もされ、知らず知らずの間に色々お世話になって居りました。
木材団地には広い土地を有し、「いずれ近い将来事業をするのだ。
その時には協力頼むよ。
」とも申されて居り、その時期が昨年参りました。
そして、私の会社にご下命頂き大変光栄であり、何がなんでも成功させねばと、社長を中心に連日の会議、全社員が張り切って居りました矢先でありました。
偉大な故先輩にもっともっとお近づきして教授を賜るべく、近日家内共々お邪魔する約束まで致して居りましたのに、突然の悲報にただ唖然とするばかりでありました。
翌日早速馳せ参じましたが、身も心も重く、お眠りになられている労わしいお姿に礼拝、奥様へのお慰みの言葉もなく献花致しますのが精一杯でございました。
窓越しには秋雨が降りそそぎ、私の心はより悼み涙ながらに惜別を致しました。
故藤一先輩には、永へにご昇天され私達へのご加護を賜りますように。