一瞬自分の眼と活字を疑うが中川夫人からのお電話で、後れ馳せながら早速家内と二人で故人が本当にご生前こよなく愛されていた豊中のお宅へ伺い、ご霊前に額づきました。
悲しみと悔しさを全身の力で押えながら急逝のご様子を気丈夫には話されるが、その奥様の痛々しいお姿に思わず顔を被う思いでありました。
古稀を目前に昇天された先人、どうお慰めしてよいか言葉も見出せない。
日本の林業の将来を憂い、そして木材業界の発展のために、人生の大半を捧げた故中川藤一先輩、総てに気魄と熱情のご生涯だったと、そのご貽績に更めて敬意を表すると同時に、しみじみと心に浮かんだのは「巨材墜つ」といった実感でした。
故人中川氏とは和歌山日高の同郷の誼というだけではなく、旧制日高中学の大先輩であります。
中川家は高名な素封家のお家柄だけによく存じてはいたが、六年先輩だけに学生時代の面識はなく、確か昭和三十四、五年頃私が大阪府知事室秘書課の係長時代、後輩への心暖まる激励に訪れてくれたのが先輩との出逢いであったかと思います。
その後は府庁にお見えになる度に必ずお立寄り下され叱咤激励をいただき特に私が知事室長に就任した時など我が事の様に喜んでくれた感激の思い出は忘れられず後輩への心やさしい思いやり、その先輩のお人柄に感銘をいたしておりました。
私が曽て成人病センターの事務局長在職のころドック入院についてよくご相談があり、あれ程ご自分の健康管理について注意を払われ慎重だったのにと、今更ながら残念無念の思いがいたします。
奥様のお話によれば年間通じ何時も手帳の中は行動表の字で真黒だったという。
余りにも世の為、人の為と、そして総てに全力疾走し精魂を使い果された結果なのだろうかと、それにしても余りにも世の無情を感ぜざるを得ません。
又、氏の母の追憶集「日々新たなり」を拝読し慈悲に満ちた孝心に頭の下がる思いで益々畏敬の念が尽きません。
特に昭和五十四年春の拙宅の新築には、よきアドバイスと格別のご協力をいただいたことは、私にとって終生忘れることが出来ません。
そして又先輩は文学的、文化的センスに鋭く万能で自然総てに興味を持ち、どこまでも追求してゆく好奇心、そして多趣味の持主でもありました。
石の彫刻にも憧憬深く、拙宅の新築祝いにと、ご自宅に所蔵されていた石彫刻、「アベック童子」をお届けいただき、いま拙宅玄関横の坪庭に大事に飾って居り、出入の度に眼につく童子を眺めながら今は亡き中川先輩の温顔を瞼に浮かべ、心からのご冥福をお祈りいたしております。
人間的な教えを頂く中川大先輩、もう既に亡く、本当に、本当に淋しく、悲しい事であります。