この大会が終り後始末の事で収支の面等で色々とご苦労され、つい最近になってお話しを伺ったのですが、この大会で大変御世話になられた高松宮様に御礼とご報告に行かれた時、帰りぎわに雨が降り玄関で妃殿下が"中川さんご苦労様でした"と云われ傘を広げさしていただかれた事をあのにこやかな笑顔で"僕だけやろ妃殿下に傘さしてもろたん"と得意げにお話をしておられ、あの時のご苦労もその事できっと満足されていたのではないかと思っております。
又時々千里山の部室にお立寄りになりカナダかアメリカに仕事の関係で行ってこられた時などは、サファリールックにテンガロンハットを得意げにかぶられ元気なお姿を今も私の目にありありと浮かんでまいります。
秋の恒例の大学祭においても大事にしておられたアメリカ(ハワイ)から輸入された"ナホア号"栗毛の大きな馬でしたがパレード用におしげもなく我々学生に貸していただき、その馬に私が乗せていただきあの時は本当にうれしくて、又おそるおそる乗らしてもらいその当時足一本でも怪我をさせれば大変な事だったのです。
昭和61年には関大馬術部創部60周年大会を関大OBが主催し在阪各大学を招待して競技会を開いた時も多大のご協力とお力をおしみなく出していただき、私達にとりましてはまさに親分的な先輩でありました。
亡くなられる二、三年前、我々OB総会を開いた時、昔しからあった騎兵の部旗がなくなっているのに気付かれお金はいくらかかってもよろしい昔あったような立派な部旗を作りなさいと云われ部旗が出来上がったのですが、この部旗は先輩以下現部員に至るまでの慶弔事に又馬術部のシンボルとして永く保存して大事に使う事を力説され我々もその部旗が出来た事を非常に喜んでいたのですがこんなに早く中川藤一先輩の棺をお包みしてお送りしようとは私達馬術部に関係する者一同夢にも思っても見なかったので私達は本当に残念で仕方がありません。
中川藤一先輩、色々と私達後輩にいつもいつも多忙な毎日の中でも、何かあれば顔を出していただき、暖かいお心をありがとうご座居ました。
今は天に召され宇宙のどこかで又、天の川のほとりで元気な中川少年として、あの天馬ペガサスにまたがり遠い所から我々を見つめておられる事と思います。
中川先輩どうぞご安心下さい。
そして安らかにおられん事をお祈り申し上げます。