そして昭和十八年三月に私は帝室林野局名古屋支局浜松出張所長から三重高農の先生に転職した。
これが中川さんとの出会いの遠因であった。
昭和二十四年五月に三重大学農学部が発足して八年後の昭和三十二年から木材商業論(後に木材流通論)の非常勤講師として中川さんが集中講義に来学されるようになってはじめて大学でお目にかかったのである。
それから中川さんのご尽力で大阪の木材業界に就職する卒業生が年々増えて行った。
たまたま私は大阪出身であった関係から、就職依頼のため大阪に出かけた時にはよく中川木材店に立寄った記憶がある。
その後中川、前重両氏を中心に大阪の木材関連会社に勤務する卒業生二十数名が集って三平会を結成、昭和四十一年十一月に釜口町「ときわ」で懇親会を開催、私も出席した。
それから毎年忘年会を開き、数年後には木材流通研究会に発展したが、昭和五十二年に十二月「ときわ」での会合が最後であった。
また昭和三十九年五月からはじまった官民合同の三翠大阪林学会は毎年六月に大阪営林局グリーンクラブで総会、懇親会があり、私も出席していたが、昭和四十七年以降休眠状態となってしまった。
それを昭和五十六年六月に中川さんが会長となり、大阪三翠林学会として再建され、現在まで続いており、私は毎年出席している。
昭和六十三年六月にグリーンクラブで中川さんにお目にかかったのが最後となった。
他方津の方では、昭和四十四年一月に大学で三重林学会総会が開催されて以来、毎年六月頃三翠会館で理事会があり、中川さんといつも出席した。
昭和六十三年七月の理事会での中川さんはお元気であった。
ところで私は昭和四十九年の春に三重大をやめてからも年二回は同窓会(津、大阪)で中川さんに会っていた。
それはいつも多くの卒業生と一緒であったが、唯一度だけ中川夫妻に出会ったことがある。
それは昭和五十八年秋の叙勲受賞者を招待する内閣総理大臣主催の桜を見る会が昭和五十九年四月十八日に新宿御苑で開催された。
その観桜会場は多くの入場者で賜わっていたが、午前十一時前にばったり中川夫妻にめぐり会ったのである。
その時のスナップ写真はなつかしい思い出となっている。
なお私は去る二月十四日から南紀の旅に出かけ、二月十五日御坊駅に下車、紀州鉄道(日本一のミニ鉄道)に乗りかえて終点の日高川駅から市内をあちこち歩きまわり、中川さんの幼・少年時代を想像しながらご冥福をお祈りして御坊の町をあとにした。