)逝って半年余り、全く早いものです。
突然の死去に、ただただ驚くばかりでした。
手術後間もなく亡くなられたため、お見舞にも行けず、申訳なく心残りも大きいものがあります。
「伯母様の思い出」の時も書かせてもらいましたが、私の兄弟三人の中で小さい頃から、夏休みになれば、御坊へ行くことが多く、(後に五軒家に養子にゆくことになっていたからかも知れないが)藤一さんのお宅によくお世話になりましたが、弟のようにして頂いたことが、鮮明に脳裡を離れません。
朝の涼しいころを見計らって、本家(中川藤一様宅、小さい頃から、中川本家と父から聞かされてきたので、現在でもそう呼ばせてもらっている)の裏側で今はもう住宅地になっていますが、その頃電燈会社があり、そこに所有していた畑から、よく熟れたナンバ(とうもろこしのこと)をもぎとって、ゆがいて食べさせてもらったり、朝食の時間迄裏庭で一緒に遊んだり、確か煙樹ヶ浜だったと思いますが、伯母さま、峰子姉さん達と共に、松露とりをしたりするなど、数々の楽しい思い出があります。
やさしかった様子が浮びます。
戦後藤一さんは大阪へ移り、私も就職するため夫々の仕事の関係から、恩顔に接する機会は大分少なくなりましたが、陰に陽にご協力下さって、おかげで和歌山相互銀行(現在の和歌山銀行)を定年迄つとめ終えることが出来ました。
又藤一さんは、積極的な、研究熱心だった思い出が心に残ります。
たしか法事で親戚が会合した時だったと思いますが、藤吉兄さんと藤一さん、私と三人で話合っていた時、藤吉兄さんの話に興味があったのか、内容を再確認して手帖に記されていたのを鮮明に思い出します。
何事にも前向きに勉強する藤一さんの一面を見た感じがします。
藤一さんは、家庭を大変大切にしながらも、仕事への情熱は強く又、人さまのお役に立つことを念頭に、多忙な毎日を送られたようで今回の死は殉職死のような気がします。
今更ながら藤一さんの生き様に、敬意と感謝の念にかられます。
色々有難うございました。
藤一さん、どうぞ安らかにごゆっくりお休み下さい。
色々有難うございました。
合掌兄逝きてやさしき姿偲びつつ今朝もあらたに涙すわれは平成元年四月十二日