何故こんなにも早く。
ただただ無念の極みである。
社長とのおつき合いは三十数年前に遡り、私が日綿実業(現ニチメン)の小樽支店に在勤中で、未だ独身の時であった。
大阪木材部経由で道産落葉松杭丸太の商内が成立し、現物確認を兼ねて打合せに来道された時に始まる。
その後東京木材部を経て、四十六年五月大阪木材部へ着任後、製品課の最重要得意先としてのおつき合いに入った次第である。
ここでは公をはなれ、私人としての思い出を語ろう。
社長は木材界の大御所としてのみならず、心の底から木そのものに惚れこんでいる人として官民の間でつとに著名な方であった。
又、詩を作られることが大好きで、とにかく何でもかんでも詩にされてしまう方であった。
そして、その内容がいつも若々しい情熱にあふれ圧倒されてしまうし、又当然のことながらそのモチーフは殆んどが木に集約されている訳である。
その社長の詩に最初に曲をつけたのは昭和四十八年のことであった。
昭和四十二年の母の日に、社長が敬愛おく能わざる母上に捧げられた「お母さん」の詩に、「曲をつけてみようか」「じゃあ頼もうか」から事は始まった。
母上は殊の外お気に召され、折に触れて愛唱していただき、亡くなられる時は皆で歌ってほしいと言い遺されていた由、まさに作曲者みょうりにつきるものであろう。
これを契機として二人の作詩・作曲コンビにより、●昭和四十九年「中川木材店社歌」行進曲調(当初日綿建友会の歌として作ったが、会の発展的解消に伴い後に切り換えたもの)●昭和五十年「白木蓮」バラード調(ご長男の結婚記念曲)●昭和五十三年「日高川」バラード調(ご次男の結婚記念曲)●昭和五十四年「大青協讃歌」寮歌調と続いて曲を誕生させたのだが今となっては懐しく悲しい思い出となってしまった。
その後昭和五十四年から五年半の間私が福岡支店勤務となって、社長とのコンビ活動も一休みするのだが、この間に別に五曲仕上げることが出来た。
このうちには身内の結婚記念曲が三曲(おい、長女、めい)あるが、これも社長ご子息の結婚記念曲の経験にあやかったもので、学生時代から詩作に凝っている私の兄に持ち掛けた結果の兄弟コンビによる産物である。
兄、弟一家も大喜びで、この点からみても社長に対しては感謝し切れない思いでいっぱいである。
今中川木材店に籍をおく身となり、名実共にコンビ復活、ご三男のご慶事には久し振りで記念曲の誕生をと喜び語り合ったのも夢になってしまった。
ああ無情!!合掌。