軍隊時は代馬に乗った経験のある私は思わず彼に言葉をかけた、それが私と中川さんとの初の出会であったと思う。
昭和二十四年頃の四橋での思い出である。
その後すっかり御無沙汰だったが十月会へ入会してから又親しい交際が始まる。
彼の人柄や公私にわたる業績は他の人が述べられると思うので中川君との交遊の中での思い出を記して追悼文の責を果したい。
昨年の十日戎に十日会で例年のお詣りをした時雑踏の人混みの中で肩に手をかけられて振り返ると中川君の笑顔があった。
いまだかつてそんなことはなかったのに……今から思うと彼の最後の親愛の表現だったのだろう。
今年も十日戎の人混みの中で懐しさがこみ上げた。
まだ若かりし頃二人で南のスナックで呑んだ(私は一滴も呑めないが)ことがある。
奥さんに電話している彼の呂律が怪しいので私が代ると奥さんが大変の御心配なのでタクシーで豊中へ送ったことがある。
車中で親友が「どうの」「こうの」私を肩を抱いてシャベッていたが途中で無邪気に眠って仕舞った。
彼が偉大すぎてとうとう親友にはなれなかったが私自身時にはハラハラしながら温かく見守って来たつもりだ。
若木寛君が「中川はんは下は仲仕から上は高松の宮さんまで知ってはる」と言っていたが中川さんの「厄年の祝」に招かれて皇族の賀陽の宮様の賀陽さんと隣り合せで話したことがあったが今更ながら人脈の広いのに驚いたものだ。
見習士官当時は婚約中の奥さんとよく連れだって歩いたとの話も聞いたが青年士官と美しい娘とのデートする情景は映画の一コマを見るようで微笑ましい。
只残念ながら何処をどんなにして歩いたかは聞いていない。
立派な大きな仕事を余りにもたくさんやり過ぎた。
それが寿命を縮めたとは思わないがもう少しゆっくり人生を歩いた方が楽だっただろうに。
十日会メンバーの島崎三四郎が死んだ時「年の順からゆくと今度は俺の番だ」と言ったがその時に一笑に付していた大岡、若木そして中川と三君が年の順を飛び越えて逝ってしまった。
かつて業界で青年将校と言われた十日会のメンバーが櫛の歯の抜ける様に死んでゆく現世の無常は避けがたい人の世の常だろう。
君の信仰するキリスト教の天とは。
そして我々の想像する冥の世界とはどんな所かしらないが中川君……ゆっくりと休みなさいよ。
平成一年二月十日