御坊の本宅に伺って、「日ノ岬」を案内して頂いた。
紀伊半島は日本最大の半島だが、地形的に山また山の大山塊で、平地らしい平地はない。
御坊市周辺はそうした中で比較的纏まった平地に、市街地を形成しているが、ほんの数キロで海辺に行き着く。
そこには険しい岬が突出している。
日ノ岬である。
案内された日は、天気は上々だったが、岬の風は強かった。
眩いばかりの日差しに輝く千波万波の彼方を指して、「向こう岸はアメリカや。
此処には、アメリカ村もあるしねえ。
我々の時代は、世界を股にかけてだよ。
」岬の灯台に立つ藤一氏に、丁度その頃、「龍馬がゆく」を無心に読んで脳裡に焼き付いていた龍馬像と藤一像が、ぴったりと重なり合ったことが鮮かに蘇る。
その後、数年前に羽田空港でばったり出会った。
「やあ!今小松空港から飛んで来たよ。
」その頃、髪を少し長目のオールバックにした藤一さんに、「龍馬がゆく」を再びみた。
昭和の中川龍馬が地鳴りするような凄いエネルギーを発して、業界の活性化に向けて躍動を始めた姿を。
新しいもの、良いものへの感覚と理解は、極めて鋭い方であった。
時代の風を頭でなく心でつかむ人であった。
藤一さんにおける自在な発想と行動は、「龍馬がゆく」の龍馬そのものであった。
龍馬といえば、藤一さんの趣味に馬術があった。
詩吟、美術と多芸多才、そして心の暖かい、奥行きの深い人であった。
昨年九月五日夜、お悔みに訪れる道は、いつも通る道だが逆の方向、三十年来つづく十日会の帰途は、決って中川さんを送り届けて帰宅していたのだが。
一昨年十一月には、それまで帰宅同方向の三人組の中から若木寛さんを失い、今また中川さんが身罷られた。
十日会が淋しくなったことはもとよりだが、例会後の車中の続会が無くなったことに、人生の無情と寂寥を感じざるをえない。
逢うは別れの始めなりというが、死を凝視せざるをえない。
死を考えるということは、生を考えるということを教えられる。
組合経営におけるあのリーダーシップ、あの情熱、理想を高く掲げ、自信にみち、いつも喜び、何事にも感謝し、敬虔な祈りの人生を歩まれた私の龍馬、中川先輩こそ、私の人生の師である。
『ひたぶるに樹々の悉究めつつ生き給ひし人我忘れめや』田中繁男氏が先輩を偲んでよまれた短歌の一首を拝しつつ、安らかな御冥福を祈り奉る。