私は故中川藤一氏の人生や、人となりを親類縁者の一人として、又業界人の後輩として、二十余年間、尊敬と敬慕の情を持って見つめておりました。
そして、日を追うごとに、氏の生き様は、戦国武将のそれと、重なり合う部分の多いことに、気づく様になりました。
「人生五十年。
下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。
ひとたび生を享け、滅せぬもののあるべきか。
」織田信長は、この一節を謡って、戦場に赴いたとのこと。
己の生を花に見立てることのできた信長は幸福な人であったろうと思います。
「世の旅はてなば、死のかわなみをも、恐れず越えゆかん、みたすけたのみて。
」これは故人の愛唱されたという賛美歌の一節です。
己の存在は"木の復権"にあるのだと堅く信じ、その実現達成のため、全力出走された故人も、信長同様、幸福な人であったろうと思います。
健康管理に時間を割くよりも、故人は、"木の復権"と"友の輪づくり"を優先されました。
そして、その結果が、解離性動脈瘤という、いとも男性的な激痛を伴う血管破裂をきたし、たった十余日の、あっけない闘病生活を送ったのみで、幽名境を異とされました。
「相手の喜びなくして、我が喜びなく、相手の喜びありてのち、私が喜び成る。
」これが故人が実践された、人生哲学ではなかったのかと、私は今、静かに、思を巡らしています。
「愛なき者に愛は来らず。
心なき者に心解らず。
」この様な意味のことを、故人は、たびたび、わが侭な振る舞いをする私を諭してくれました。
故人は、愛なくして、心なくして、生くることを望まれなかった、希有の大人でありました。
平成元年二月二十四日、"大喪の礼"の取り行なわれている小雨の午後、「昭和天皇様、ご苦労様でした。
心静かにお休み下さい。
」と送りつつ、故中川藤一氏の追悼集にと、この拙い文を記させていただきました。
合掌