六十二年の秋『実務者からの木材常識』(仮題)の出版企画が中川さんから持ち上がり、手順は翌年の七月に脱稿、秋には上梓する計画が組まれた。
打ち合わせ場所は豊中の中川邸が当てられ、持ち寄り資料の整理から、各項目の決定、執筆の割り振り、棒組、校閲と、徐々に進行していった。
特にこの件については情熱を傾注し、培われた専門知識を駆使され、その完成を楽しみにされていた。
このことから、より親しくさせて貰い、接すればその人柄及びその造詣の深さに、屡々脱帽させられた。
取分け、墨書を能くするための各種筆類、キャンパスに躍る油絵の数々、庭内には二〇〇余種に及ぶ四季折々の花樹と、そこに点々とする碾臼による飛び石、樹間に点在する石像群、どれを見ても眺めても、こよなく主が愛された種々。
また岸和田・美原の社屋もユニークな外観で、屋内外は宛ら木材関係の展示資料館の様相を呈している。
色々な鋸、鳶類、槍鉋、木の標本と民具類、そして群書に絵画に拓本と、加えて石の造形群、なに一つ取っても、人柄が馴染むものばかり、それこそ枚挙するに暇が無いコレクションがある。
木を愛することは、記念品や引き出物にも現れ、必ず木の加工品を利用された。
例証として美原の木材工場団地では毎秋「ウッドフェアー」を開催し、木工関連製品の即売をしているが、その実行委員会の席上、来場者に手渡しする粗品の検討をした。
品物の価格も然ることながら、木に関する物が皆無だった。
その時「私達は材木屋ですよ」との一言で一件落着。
正月用の祝い箸セットを百円以下で、ご本人が吉野から調達された。
もう一つ「ウッドリーム大阪」の構築物には絶対に釘を打たせなかった。
ということは、フェアーの飾り付けをするのに、釘止めの必要な箇所が多々あり、押しピンの使用は認めるが釘打ちは一切禁ずると、顔面色を為して言われたのには、びっくりさせられた。
またその反面木材の普及利用には「ウッドリーム友の会」や緑化記念事業としての「緑の少年団」「チビッコ木工教室」開設等々。
巾広く啓蒙し実行された。
そしてこの「ウッドリーム大阪」の設立に際しては東奔西走し、それこそ心血を注ぎ、設計から使用材料、シンボルマークやレストランの名称まで、公募と衆智の結果に待った。
大阪城は太閤秀吉、安土城を信長とすれば、この「ウッドリーム大阪」は、さしずめ中川藤一と申しても不思議ではない。
今も中川さんは、ネクストバッターサークルで、ニコニコしながら木材界を眺めておられることだろう。
白菊を手向け拝み遺影みる秋の空西教会にひろがりぬ(九月二十二日詠)