その数時間後に緊急入院回復なきまま二度とお逢い出来ない遠い処へ逝ってしまうとは、「元気でな度々顔を出す様に」と言って下さったのに、悲しみが胸に込み上げて参ります。
私は昭和二十二年二月より四十余年間解放的で明るい中川家に過大のお世話になりました。
当時の事務所は住友西道頓堀ビルにて、現場事務所、貯木場は道頓堀川に沿って百米程西へ行った処にあり寝食は都島の社長宅で、奥さんの作って下さった弁当を持ち戦後の廃墟の町を自転車で通いました社長は得意先開拓等多忙の日々でした。
又、木材を肩に担ぐこつ結束の仕方等懇切丁寧に教えてくれました。
しばらくして従業員も三、四名増え、勤務の楽しさが日々わいて参りました。
これも明るい家庭的な社長ご夫妻のお人柄があってこそと思っている。
昭和二十八年夏日高川の大洪水で故郷御坊の町は大水害にみまわれた時社長と共に缶詰等の物資を背負い急遽御坊へ向いました。
途中箕島附近より機帆船に乗り比井崎港より徒歩一里の道程を泥道に足をとられながら、午後二時過ぎ会長宅に着き、人一倍御両親思いの社長は、父母の御健在なお姿を見て涙流して喜ばれた顔今でも思い浮びます。
私も頂いた缶詰を持って実家を見舞い母は大変喜んでくれた。
昭和三十年三月社長御夫妻の御媒酌により結婚式を挙げました。
大変お世話になりました事生涯忘れる事は出来ません。
又我家の色々の記念日にはその記念に、相応しい品物を社長から頂いた物数多く、見る毎に想いに経ける今日です。
昭和六十二年十二月長男の結婚式に社長御夫妻の御光臨を頂きお祝いのお言葉にお唄も頂き、本当に我が子の様に祝って下さったのに、その日のビデオを見る度に、あの様に元気な社長さんがと親戚一同驚愕している次第です。
社長は信念強く涙脆く中川家八代目でしたが現在は九代目の中川勝弘社長が日夜頑張って居られる。
九代目継承披露には、嬉し涙を流しただろうに。
社長安らかにお眠り下さい。
御冥福をお祈り申し上げます。
平成元年二月二十四日