それまでは何時ももう少し暗い部屋であった。
孝行息子の藤一氏は御母君のために、明るい、陽当りのいい居室を建て増されたのであった。
そこに「我らが外なる人は壤るれども、内なる人は日々に新なり」との新約聖書の聖句が掛けられていた。
これは書ではなく、意味を読み取って欲しいのだと御母君は言っておられた。
年老いて教会に足を運ぶこともできずになっておられたが、教会の者たちが訪れるのを喜んで、快く迎え、「この聖句が好きで‥・」と、わたしに仰言ったと同様のことを御話しになるのだった。
藤一氏も教会員であられた。
此の世のことに多く心奪われ、主の日の礼拝に御出でになることは少かった。
彼の信仰生活の責任を担う牧師として、このことを思うと、今も心傷む。
事業の多忙さに加えて、藤一氏は趣味の人であった。
民俗の物産に細やかな愛情を注ぎ、その背後にある人々の生活に思いを馳せた。
また勝れた芸術の鑑賞眼を持ち、ただ名を成した作家たちのものを徒らに追うのではなく、御自分の眼を信じて良いものを見定め、それを大切にされた。
わたしの岳父である山下摩起は四天王寺五重塔の壁画をはじめ、南御堂後門の壁画などを手がけ、朝日文化賞を頂戴した画家であったが、いずれの会派、団体にも属さず美術年鑑などに価格が掲載されるような画家ではない。
しかし藤一氏は、彼の作品に畏れに似た愛情をもち、いくつかを所蔵に加え、折にふれて楽しんでおられた。
美術品を投資のように考え、株のように売買する美術品蒐集家とは全く無縁であった。
或る日、彼は、わたしに一筆揮亳を所望されたことがある。
「それでは暫く手習いをしなくては」と申し上げると、「いや、意味の方が大切ですから」と御母君と同様のことを仰言った。
牧師であるわたしに彼が求めたのが何かは分かっていた筈である。
くだらぬ自信と誇りが、この兄弟に聖句を贈ることを躊躇させてしまった。
その後、身辺、俄に慌ただしく、住居も横浜に移した。
昨今、「我裸にて母の胎を出たり又裸にて彼処に帰らん耶保華与え耶保華取り給うなり耶保華の御名は謹むべきかな」との聖句を彼のために書こうと考え始めていた。
彼の訃を聞いたのは、まさにそういう時であった。
果し得なかったわが職責と約束の代りに、心を籠めて。