だから十五年となる。
長い人生の中で十五年は短いともいえるが、年五十回の例会を中心に、ヤァで終る時もあるが、アッセンブル、フォーラム等で意見交換する、こうしたことが、七百回からあったわけだから、中川さんのイメージが今尚私の頭の中に強烈にのこっているのは当然かも知れない。
中川さんを一口で語れといわれると、「真面目な何ごとにも真剣に取組む、すばらしい人」、これが私の答である。
中川さんは三重大学で教えられている方と聞いて、固い人だろうとのイメージをもった私が、初めて会って意外にもやわらかい、そして人なつこい方だとの印象を受けた。
入会された直後ひるがの高原へゴルフ遠征に出かけた時、同じ部屋で一夜を過した。
ロータリーに入会したからには、あらゆる行事に参加せねばならぬとの先輩のいうままに、余りすきでもないゴルフにも参加されたわけだった。
これは中川さんの真面目な性格を物語っている。
(昭和48年8月22日23日の私の日記には彼のスコアが刻明に書留めてある。
それによると全く義理で参加したことがはっきりしている。
)卓話も真面目に自分でやられたことが多かった。
専門の木についての卓話でも十二分に準備され、短かい30分の間に皆に印象づける濃い内容のものであった。
すし屋に入ってむつかしい魚偏の文字表を見る度に思い出すのが、中川さんの「木偏百樹」である。
今頃の若い者は字を知らないというが、この本をいただいて、われわれも余りかわりないことを知り、これでは若いものを非難出来ないですなと二人で笑ったことがあった。
三年前になるが、われわれのクラブが担当した地区大会では、副幹事として手間のかかる、こまごました準備もいやな顔もせずこつこつと取組んでいただいた。
大会当日の朝は奥様と二人誰よりも早く出てこられたあの時の姿が、今も尚目に浮かんでくる。
ロータリーのパーティでの美声が今尚耳にのこっているし、日頃病気とは全く縁のないような頑健な中川さんの死が余りに突然であったので、まだ何処かで元気で活動されている様な気がしてならない。
そのせいか追悼文らしい内容になっていないのが気になる。
中川さん、おゆるし下さい。
合掌