大阪の中川藤一さんが亡くなられた、という情報はその日のうちに業界にくまなく知らさ れました。
業界にやや離れて過す私のところへも、至急報として通達され、愕然とした私 が、何故と反論したことは言うまでもありません。
思えば、我々の最高のリーダーは、ま さに中川さんでした。
充実した知性、豊かな経験、そして穏やかな感性の下、適格の判断 をもって所信を披露される。
それも温容でやさしい大阪弁で、聞く人の理解を引き出す平 生でした。
中川さんの知遇を得たのは木青連からでした。
といっても、東京木材青年クラブの、単に 初代市況委員長をやった位の私ですから、はじめはそれ程の御厚遇を得てはいませんでし た。
しかし何回かお顔を
pあわすうちに、いつしか名を覚えて下さったようでした。
最初は、 年一回の木青連大会に、OBとしての参加でした。
その中で、今も忘れ得ぬのは、長良川 の鮎づりの時でした。
船上で、実に満足のお顔をされていました。
お会いするチャンスが 増えたのは、これも中川さん方が作られた同友会へ参加したからでした。
年に数回はお会 い出来ました。
中川さんは、いつも堂々たる所見を述べられ、参加者の注目を集めていら れました。
我々東京勢が最近二回上阪し、中川さん方のお世話になったことも忘却し得ません。
六十 二年六月は、同友会の集りで、美原団地、ウッドリーム、農林技術センター等の見学でし た。
この日中川さんは殆んど一日を我々の為に割いてくれ、微に入り、細をうがつ説明と、 兄貴分らしい暖いお取扱いに感銘でした。
六十三年三月は木青連総会でした。
「木を考え る」というシンポジュームと夜の大懇親会に於ける中川さんの活躍、特にOB連への思い やりは、痛い程の有難い感激でした。
このような例を拾えば数限りもありません。
とにかく中川さんは、特にすぐれた人格者でした。
単なる事業家ではありませんし、単な る学者でもありません。
2×4、小径木と、必要を感ずれば体当りでした。
私などは「流 通」の本の愛読者ですが、それを読みつつ思うのは、よくまあ頭の切りかえが出来るもの だ、身体も見かけ以上に逞しいようと感じました。
中川さんは嫌がることを知らない。
ど んな困難にも正面から取組む。
特に木材に対しては、誠実で真面目で且深い情熱をもって いられた。
しかしその方も今はない。
知遇を得た我々は、その指導を生かした行動をとり、 在天の先覚のお賞めを得たいと思う次第です。