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神谷のインドネシア点描

追憶タラカン『インドネシアの上に30年』


1979年2月、インドネシア語も解せぬ25歳の若造が突然インドネシア共和国 東カリマンタン州タラカン島へ赴任しました。
湿地帯の原木伐採に従事し、ジャングル内での検品、海での船積み・・・、 何もかもが珍しく、少年ケニヤになったつもりで毎日が探検、仕事さへも冒険でした。 ボートで海を走れば男らしさを体感、原木積取り船のデッキに佇めば6000トンの 巨大船を預かる大将気分を味わいました。
どこに居るのか判らぬ赤い糸で結ばれた理想の女性に、こんな男くさい自分を是非 見せたいと痛烈に思っていました。
日本に帰って来ても想うのはインドネシアのことばかり、再渡印を待ちわびました。 そんな『インドネシアRINDU(恋しい)』な生活が原木禁輸まで5年間続きました。

そのうちだんだんと覚めて現実が見えてきます。

田舎ですので顔が売れてくるといろんな話が持ち込まれます。 良かれと思って貸したお金が返って来ず途方にくれたこともありました。 騙されもしました。 『林区を取らないか、お金さへ貸してくれれば特別枠で輸出させるから大もうけ!』 お金を貸すとあとは何だかんだと言い訳をして最後まで材は出てきませんでした。
金を返せ!と迫ると、
『返す気はあるのだが手元に金が無い、金が有れば返すが無いので返せない、返さないのは罪だが返せないのはAPA BOLEH BUAT(仕方ない)、  俺には返す意思があるのだが神様がまだお許しにならないのだ  ・・・インシャラ(神の御心のままに)、それなのに何をお前は何を迫るのか?』、 と居直られました。
怒ると、『HABIS BAGAIMANA!・・・だったらどうせよと言うのか!』、
と逆切れされました。
インドネシア生活が5年を越えた頃からインドネシアが本当に嫌になりました。

そんな『インドネシアBUNCI(憎い)』な日々がその後延々と続きました。

嫌いキライで過した期間も10年を越えてきますとだんだん気にならなくなってきます。 彼等は冬のない裕福な国の人達なのだ。金がなくとも生きてゆける恵まれた自然の 中で育った人たちなのだ。凍え死ぬこともなければ飢え死ぬこともない。 日本と同じに考えていけない。
蓄えを持たなければ飢え凍える自分の尺度で恵まれた人々を律してはいけない。気候が違うように常識や尺度が違うのだ。 ここで生きるからには彼等の生き方を認めなければならないのだ・・・、と。
そんな時に義兄弟の契りまで結んだ華人の友に言われました。
俺たちはよその国に間借りして住まわせてもらっているのだ。
少しぐらいの迷惑は俺達が我慢すれば済む事だ。
俺達が彼等に迷惑をかけなければいいのだ・・・、と。

吹っ切れました。

その後義兄弟や心の通った華人の友達と合弁事業を起こしましたが小職が紹介 した日本のパートナーに裏切られて失敗。 小職が騙した、と彼等に疑われ、出資金と友人の両方を失う地獄を見ました。
我が身の潔白を晴らしたい一心で会社を辞めてインドネシアへ舞い戻りました。 15年目のことでした。 
でも、失った友もお金も戻っては来ませんでした。
最も潔白を証明したかった義兄弟はその後疑惑を抱えたまま癌で亡くなりました。 迷惑をかけない主義の自分がそれを教えてくれた一番好きな友に迷惑をかけて しまった・・・、

慙愧に耐えられませんでした。

それから更に15年の月日が流れ、とうとう30年を越えてしまいました。
本年2月でインドネシア生活も31年目に入ります。
石の上に3年といいますが、30年もインドネシアの上で頑張っておりますと 好き事も悪しきことも全ては恩讐の彼方に消え去ってしまいます。

今では感謝の気持ちでイッパイです。

蓄えがなければ生きてゆけない冬のある国から、生活の糧を求めて常夏の国へ、 請われもせぬのに渡って来た小職をインドネシアの人々は快く受入れてくれました。 そして30年の長きに亘り仕事をさせてくれました。 そのお陰で結婚でき子供も生まれ、両親の世話も焼けて何とか今日まで生きて 来れました。(本年は初孫の顔を見るという喜びを味わえるかもしれません。) この人生はひとえにインドネシアの人々の寛容な精神の賜物だと思っております。

立場上小職はコンサルタントと称する指導員です。
日本の優秀な技術(例えばKAIZENやKANBAN)を教えてやるので敬って聞け!
というような態度で彼等と向き合ってはいけません。
本来日本の技術なぞ知らなくても充分生きてゆける自然の恵みの中で暮らしている 彼らですので、ただのアリガタ迷惑となってしまいましょう。
(喜び尊ぶのは同じ雪国のDNAが流れている華人経営者だけです。)

この技術をインドネシア流に味付けし、その価値が判る様噛み砕いて提示してこそ、 インドネシア30年の経験と知識となるのです。
押し付けではなく、知らず知らずの内に従ってしまうようなシステムに作り変えて 彼等に知らせるのです。
貧しい風土の中で我々日本人の先達が生きんが為に必死で培ってきた技術です。
少しでもあなた方のお役に立てばコンサルタントとしてこれに勝る喜びはありません。
何せあなた方の国で生かされているのは小職なのですから・・・。

これが30年の年月を経て得られた心境です。

RINDU(恋しい)、BUNCI(憎い)、そして、その挙句に到達したのは・・・

『BUNCI TAPI RINDU(憎いけど恋しい)』な、世界なのでした。

本年も宜しくご指導ご鞭撻の程を、お願い申し上げます。
                            平成21年 元旦
インドネシア写真
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