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危機1.関西最大のビッグプロジェクト

星-日生
子会社に星がついている理由
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阪急日生ニュータウンと鈴木政夫

当社が阪急日生ニュータウンの木材指定業者となったきっかけは、当地の開発会社である新星開発の社長、儀賀さんに、当社社長の中川藤一が鈴木政夫を紹介したことでした。儀賀さんと中川社長は、同じ大阪西ロータリークラブのメンバーであり、会長予定者と会長という関係でもありました。お互いを尊敬し合う、とても親しい間柄です。

鈴木先生の作品は阪急日生ニュータウンや「彫刻の道」などに120点余りが設置されています。次の書籍は、これらの作品の一部を紹介するものでした。

日生
町造りの中の石彫作品集 中川藤一
日生/鈴木政夫
日生/鈴木政夫
日生/鈴木政夫
日生/鈴木政夫
日生/鈴木政夫
日生/鈴木政夫
日生/鈴木政夫
日生/鈴木政夫

鈴木政夫『町造りの中の石彫』作品集出版に寄せて

中川藤—

鈴木先生と一緒にお話しをして居る時「日本人の心の問題はこれでよいのか?日本の町造りはこれでよいのだろうか」と言う議題が時々出る。
私も木材と言う仕事の関係と、大学生に年間数十時間講義の時間を持って居るので「心と町造」の問題には興味があり、いろいろ突込んだ話しになってゆく。
結局なつかしい故郷。いい町だったと想い起こさせる町、そうした環境作りが大人の我々の仕事ではなかろうかと言う事で落着く。
或る日のこと、故郷造りに自分達の力で出来るささやかな事から始めようと言う事になり、鈴木先生は「人間幼年時代が大事なので一年に一ヶ所宛自分の作品を何処かの幼稚園に贈らせてもらおう」それでは日本の北から行こう。先ず北海道の 稚内へ。それでは北海道庁大阪事務所に連絡しょうと即決、費用一切当方持ちで置かしてもらおうと言う発議がかなって、四十九年夏日本最北端北海道稚内鈴蘭幼稚園での除幕式となった。
その準備をして居た四十八年秋頃鈴木先生の第一集「生活の中の石彫」作品集を見て居られた、新星開発(株)の儀賀社長さんから兵庫県の猪名川町から川西市にかけて目下110万坪、三万人のニュータウン造りをして居るが、新旧いろいろ世界の町を見て歩いたが、今度の町にぴったり入る様な故郷を想い起させる様な造形は何一つ見当らなかったが鈴木先生の作品には暖かさがある。これを何とか町造りの一環に組み込めないかとのお話しで、早速鈴木先生を囲んでの懇談となりそれが今回の第二集を作るきっかけとなった。
人間を大事にして行こうと言う作者と住む人達の気持を大事にした町造りを目指す日本生命さん
との心がなかなか実行し難い新しい町造りの中の石彫群となったと思って居ます。
山を開き森を伐った新しい造成地で、お互に始めて寄り集った人々の中に故郷を感じさせる事に無理があり、又故郷は周囲から押しつけて出来るものでない事は百も承知していながら、少しでもその中にやすらぎを感じ、うるおいを持たせ、明日への活力を得るよすがとなってもらいたいと言う両者の熱意と、作品そのものからかもしだす、美しさ、ほほえましさが、この阪急日生ニュータウンに住む人々の心の中に一味違う故郷感となって暖い気持の通った町造りに発展して居る様に思います。
作品集にも二、三、撮されている様に、仕事に疲れた会社の人々の心を少しでもなごまして呉れる事が出来たらと言う願いから会社の内外におかれる方も多くなった。
私は鈴木先生が石彫りと言う非常に体力のともなう仕事をしながら、好きな酒も節して大衆の目、人間の心と共に生きて行きたいと願う心意気に感激し、又その努力が石彫刻に於ける日本の最高の地位を得たものと信じて居ます。
美術家と生活、そこにはまことに現実的な斗争がある。それを乗り越えて石彫の美のためにあえて苦しさを選んで進む鈴木先生の一貫した態度に敬意と賛辞をおしみません。
この作品集が町造りを目指す多くの方々への一つの波紋となれば幸せです。
第一集が多くの方々の共感を得た様に第二集も又この本に接した方々の共感を得て次の大きな作品集に稔り継がれる事を心から祈って居ります。
昭和五十年八月十六日記

『町造りの中の石彫について』

鈴木政夫

近頃各地で、しきりと都市空間における彫刻(造型物)のことが、取りざたされるようになって来た。日本もやっと、この方面で欧米なみに近づいて来たのか?といいたいところではあるが、とんでもないことで、とてもとても、まだまだ語るもおろかな現実であろうと私は思っている。
むしろ、欧米の都市空間における造型物のサンブルが邪魔をして、すこしも現状をよりよく進めていない、というのが私の見方である。
われわれはわれわれの町のことを考えているのであって、知らぬ他国の町のことではないのである。
戦前と戦後では、いろいろと生活面においても、変ったかに見えるけれど、よく見てみると、その体質は、すこしも変っていないことに気がつくのである。
ところで、その体質のことはさておいて、戦後の何よりの特色の一つとして、戦前とは思いも及ばぬ程、家を必要とする人々がふえつつあるということであろうか。庭付きの一戸建て、というの勿論理想的ではあるが、これはごく一部の人々であって、大半は、日本各地で夥しく建ちつつある、団地建物で満足せねばならないのが現状である。この団地の建物たるや、まるでマッチ箱を林立させた姿そのままである。建築設計者は、それぞれ好をこらして、如何に住みよい、しかも合理的な建物を作ろうかと、日夜頭を悩まし続けているのであろう。
が今や、これ等の団地建築にも、何やら一つの壁にぶつかって来たかのように思えるのである。その壁とは一体何か?そこへ始めて入る人々には、それぞれ自からの古里があるのだけれど、そこで生れた人らは、その団地が古里になる筈である。何んと味気ない故郷ではないか。しかも、そこで育った若人らは、今や堂々と大人の世界へ入りつつあるのである。
この辺から、救いがたい精神的荒廃が始まるのかも知れない。
一部の不動産業者、建設業者らは、どのように社会から誘謗を受けようとも、一向に風土の荒廃をあらためようとはしないのである。
そこで都市空間に、何等かの潤いをということになって来るのは至極当然であろう。それらの空間を埋める造型物が、いろいろと考え作られ、兎にも角にも、一つづつ実現しているというのが今日の状態である。
が、私は思うに、造型物もさることながら、これらの町造りに共通していえる、一つの重大なミスがあるように思えてならないのである。
即ち、もともと、町とは造るものではなくて、出来るものである。いやむしろ生れるものであるということを。
広場を造り、さあ皆さん、ここで対話をして下さいよ。といってみても、おいそれとその広場が対話の広場にはなってくれないのである。便利で合理的な町造りが、かならずしも人間精神の安らぎの場になると、誰が断言出来ようか。むしろ不便な場所、そこにこそ本当の対話の場所があるのかも知れないのである。人間とは、もともと不合理の上に生活する動物なのかも知れない。
さて、その町の中へどのような造型物を持ち込むかが、ここでの本論である。
大阪での万国博は、われわれにいろいろなことを考えさせてはくれたが、要するにあの広場は、見せ物広場であって、決して住む広場ではなかった。が、その後の町造りの中で、据付けられる造型物が、どうしたものか、どうも見せ物広場にこ
そふさわしい、といった類のものが余りにも多すぎるようである。お祭は一年に一度あれば結構であって、実は毎日こそが、生きて行く上に何よりも大切なのである。
例えば、野外展のコンクールがどこかで企画される。審査員を委嘱して賞をきめる。そして優秀なる作品を、どこかの町の空間に据付ける。又はその年の発表作品の中から、(主として東京でああるが)三、四点をそれぞれの県が買上げ、その県の適当な町へ据付けられる。又は大阪の町で実行しているように、彫刻の歩道を作り、作品を並べて一般大衆に見せる。あるいは新しく出来た団地の広場へ、モニュマン的なものを建てる。等々は、特別関係のない人でも御存知の筈である。
が、これ等のものが、如何にせん、総てとはいわないが、その殆んどが、外なる顔で作られているということであろうか。見せてやろう、驚ろかしてやろう。何処か作為が鼻についてたまらない。そればかりではない。やれ行為だの、やれ観念だのとさわぎたてて、自我の主張の余り、これでもか、これでもかと、おしつけられているようで、やりきれない。
要するに、美術展覧会が、野外に変っただけのことである。しかもこれ等の作品群の殆んどが台座の上に鎮座ましまして、作者名迄つけてあるに至っては、すでに一般大衆との対話の問題ではない。しかもこれ等の物をして、一般市民への美的啓蒙だと思うに至っては、思い上がりもここにつきるというものであろう。
大方の一般市民の求めているものは、一体何か?ましてや、自分等の日常住む空間に何を求めているのか、これが一番大切な問題である。
たとえ物言わぬ一個の石くれであっても、人は、その場所と、大きさと、質の中で、それを一つの存在として認め、しかも何等かの精神の安らぎが得られるものである。
かって、わが風土の中で、豊かにつちかわれた、立派なパターンがあったではないか。それは何あろう、あの地蔵であり、道祖神であり、庚申であり、馬頭であった。これ等の殆んどは、名もなく金もない人々の作ったものばかりであった。しかも、この貧弱な造型物が、どんなにわれらの貧しい祖先等の心強いよりどころになったことか。そうしてあの素朴な少年少女等の忘れがたい古里の対話の広場のシンボルになっていたことか。
が、今日的な生活の場で、果して現代人が、かっての地蔵を信じ、道祖神を信じ、馬頭を信じるかどうかは何んともいえないが。
しかし、私は、すくなくとも、そのような精神風土に根を張ったものでない限り、まず日本の町造りの空間に、どのようなものを置いて見た処で、所詮失敗であろうと信じて疑わない。
「都市空間における造型物」この言葉も何やらきざっぽく、しかも空々しく聞えるではないか。要するにそれを作る人々の生活の場が問題であろう。頭だけで決して出来るものではない。
私は思う、現実の自分の悩み、自分のよろこび、それ等のものを含めて、自由に作ること、そしてそれ等のものを、土の上に一つ一つ捨てていく、その捨てた場所が、人と人との対話の広場にはならないか。そして人を信じ、人を愛する仲だてとはならないか。そして又乞い願わくは、それ等の物が、名もなくひそやかに光る星のようにならないかと。

作品集によせて

小さな石が、 大きな大きな石が何かを話しかけている。 日本のお城の石、 京都の名刹のお庭の石、ギリシャのあの 巨大な石の柱が、 石畳が数千年もたった今も私達に呼びかけて来ます。 石は生き続けているからでしょう。 そし て「いのち」 があるからだと思います。 石彫そのものは、 人類の長い歴史と共にその生活の中で次第に育ぐくまれ、 時には極度の豪華さや技巧の精彩さや、また最も素朴な 中に求められる可憐さとか優美さとかを表現しつつ、 その時その時の彫刻家のたゆまぬ人格と執念と熱情とが とけあって、 豊かな芸術的価値をつくり出して来たもの と考えます。鈴木政夫先生は生活の中の石彫に生涯を打 ち込まれ、その作品には私達日本人の心の奥底にある暖 かい心のふれあいと、ほほえましい愛情を感じさせ、そ こには心の安らぎを覚えさせます。 私共の町造りは、そ こに住む人々の生活の安全さや利便さ、 心の楽しさが近 代化せられた都市機能と密接に結びついてこそその町が 愛され親しまれて、故郷としてのいつくしみとなって ゆくものだと信じております。 それには何とかして町に 永遠の「いのち」 を与えたいものだと考えまして、 町の 人々の生活の場の中に先生の作品をとり入れることに致しました。 私共が造っております阪急日生ニュータウン と、そこに住んで頂く多くの人々のために少しでもお役に 立ちますれば幸せこれに過ぎるものはございません。 先生の作品集の第二集 「町造りの中の石彫」 が発行さ れるに当りまして、 先生の益々のご精進を念じてやみま せん。
1975年夏

日本生命保険相互会社 社長 弘世 現

あとがき

私にとって、思いもよらない、全く思いがけない仕事が降って湧いて来たものです。それは「日生ニュータウン」の環境造型の仕事であります。これはのぞむべくしてのぞめる仕事ではありませんし、やはり何かの縁とでもいったらいいのかも知れません。この仕事を始める時、すでに私は今日の第二集の事を頭に描いていたのでありました。 日生ニュータウン造成のトップ、並びにスタッフの方々の並々ならぬ御理解と情熱によって、ほんのわずかではあるが、現実現場に、私の作品の幾点かが置かれたのであります。巻頭にも記した通り、町造りの中の造型が、一体どのようなものであっていいのか、私は私なりの実験をして、一つの解答を出したつもりであります。その答案の一部がこの第二集の主力となったわけでありますが、どのような評価が下されるかは、一にかかって、そこに住む人々がきめてくれることでありましょう。 今度の作品集も中川藤一氏の熱烈な情熱に負う処大でありました。ここに満腔の感謝の意を表する次第であります。 何事によらず、一つのことが完成するということの裏には、いろいろな人の御心添えがなければ出来るものではありません。この作品集に御協力下さったお方々にここに厚く御礼申し中げます。 鈴木政夫 〒444岡崎市伊賀新町35-18TEL0564(21)6529

日生
新しいふる里の中の石彫 鈴木政夫
日生/鈴木政夫
日生/鈴木政夫
日生/鈴木政夫
日生/鈴木政夫
日生/鈴木政夫
日生/鈴木政夫
日生/鈴木政夫
日生/鈴木政夫

新しいふる里の中の石彫について

鈴木政夫

しじまを破る清澄な陽の光り、夜は星が降る四季の自然の変化を、日々告げる都市です。ここは、関西北摂の自然の恵みをいっぱい受けた都市です。春、夏、秋、冬、移り行く自然の多彩なその色と香り。公害を知らな
まち
い自然のなかの365日。こんな都市こそ、人々はふれあいを大切にし、こども達はすくすくと育つことでしょう。
この文は、ここ兵庫県川西市一庫、川辺郡猪名川町にまたがる、110万坪に及ぶ台地に繰り広げられる、現代日本人の求め得る最高のオアシス、日本生命がそのもてる力を駆使して、着々建設を進めている、新しいふる里「阪急日生ニュータウン」の、その建設内容を伝えるパンフレットの、巻頭を飾るキャッチフレーズである。
丁度今から五年程前のことである。偶然の機会から、この団地の造成を進めている、新星開発の儀賀社長さんと御会いして、その団地作りの細部に渉ってお話しを受け賜わり、そしてその団地の中に相応しい、造型物の一切の制作を依頼されたのであった。
110万坪。三万人の生活が出来る住宅地。その大きさが私にはとても想像出来なかったのは、至極当然である。それは私の想像を遥かに凌ぐ厖大なものであることを、其の後ひしひしと感じたことであった。これは大変なことを御引受けしたものだと悔んだりもした。
私は、もともと欲が深く、人一倍小心のため、人と連携をして仕事が出来ないのである。どんな小さなことでも、自分一人で考えて実行したいのである。そのため、一生の間に、たいした仕事も出来ないで終ってしまうであろうと、常々諦めていたのである。
いずれにしても、この夢のような仕事が、私の手で出来る。私の生涯にとって、二度とない機会であり、且つ、私の描き続けていた理想と、実際の仕事を、大衆の中へ位置づけるのには又とない絶好の場でもあった。
人は誰しも、他人のした仕事を、勝手に批判は出来る。ああしたらいい。こうしたらいいと。が要はそうしたことではない。作ることであり、実現することである。それがものを作る者の責任というものでもあろう。
さて、私は、この新しい団地での仕事を進めて行くにあたり、どのような造型が最もふさわしいのか......・・・・。私は、私の今迄の自分の仕事を通して、いろいろと考えて見た。そしてその基本的な考えの幾つかをまとめて見たのであった。
1.何よりも日本の町作りなのであるから、日本の風土に根ざしたものでなくてはならない。
2.邪魔にならず、目障りにもならないもの。
3.絶対に安全なもの。
4.前々からその場にあった物のようで、取り除くと何とも淋しくなるようなもの。
5.特定の宗教を現わすものではなく、人類普遍なヒューマニティに裏打ちされたようなもの。
6.水、電気の如き常時費用と管理を要するものは、やめた方がいい。最少限度住民自体で管理出来るようなもの。
7.余り作者が自己を主張せず、見る人にある種の想像を描かせるように幅を持たせたもの。
8.唯造型的なものではなく、何等かの意味で町の機能と結びつくようなもの。
以上気のつくままに列記して見たのであるが、なかなかこれらを含めうるような作品となると、大変なことである。明治以来、日本の現代彫刻が歩いて来た道の中で、この処が一番の不毛地帯でもあったわけである。
もともと日本の近代彫刻は、他の美術分野とくらべれば、一歩も二歩も遅れた処を歩いて来た。このことはすこし関心のある人なら、誰もが認める処であろう。その最も大きな原因は、彫刻が余りにも売れなかった、ということかも知れない。売れないというより、むしろ売れる程のものが作れなかった、と言う方が正しいのかも知れない。これにはいろいろ理由もあろうが、ここでは別問題であるからそのことにはふれないことにしょう。終戦後の彫刻界の大きな変貌は、何と言ったって、野外彫刻の台頭であろう。それは、一連のコンクール、シンポジューム、さては、都市空間に於ける彫刻はどうあるべきか、という運動となって、華々しくひろがって来たのであった。オリンピック、大阪の万国博、沖縄の海洋博、等々、そしてやがてその流れは、箱根の彫刻の森へと続くのである。
が、これら一連の作品を見ると、何としたことか、その主流をなす作品の殆んどが、抽象造型一辺倒と言っていいのかも知れない。又その素材も非常に多様化して、大きく別けて、石、セメント、木、合成樹脂系統、金属ブロンズ、鉄、軽金属)等々であろう。
長い間後衛ばかりを歩いていた日本の彫刻界は、一挙に前衛におどり出たという次才と相成った。悲しいことに、日本の彫刻界には、本隊がいないのである。本隊のいないままに、都市空間に於ける造型、という極めて生々しい現実の本番に出されてしまったのである。
私は、この仕事を引受けるに当たって、出来る限り、新しい団地造成を見ることとした。
それぞれ団地によって、異なってはいるようであるが、不思議と共通する点が幾つもあることを知ったのであった。
高度経済成長期と、符号を合わせるように、全国各地に、新しい住宅団地が夥しく開発された。功罪様々に論じられるであろうが、要するに、社会奉仕の仕事でない限り、儲けが優先するのは当然であろう。兎に角売らなければならないので、それぞれ趣向を凝らして、サービスこれ努めるものの、建設不動産業界の体質は戦前
と何一つ変わる処がない。住まいの環境を豊かにする配慮は、余りにも淋しい限りである。ましてやその中に造型的なものを配置する予算など、ビタ一文計上していないのは、いづこも判で押したように同じである。
先程記した戦後吹き上がって来た、都市空間に於ける造型物、この方は華々しく各地に登場して来たようであるが。たとえば新宿西口の都市開発とか、大阪千里のニュータウン等に見るように、その周辺を美化するた止め、様々な造型物の出現を見たのであった。が、これらのものの大半は、スポンサー付きの別途会計で出来たものである。要するに、スポンサーのコマーシャルの一翼を担った、言って見れば広告塔の一種である。
こうした風潮は、戦後の日本の外来文化の導入の主流がアメリカであったため、アメリカ文明に負う処極めて大であると私は思っている。
御存知のように、アメリカ文明は、その原流をヨーロッパに求めているとしても、あの広大な大地と、有り余る物資のお陰で、あっという間に、全世界を席捲してしまったかに見える程、その影響力は巨大なものであった。しかも日本はその波をモロに被って、右へ左へとゆれにゆれ動いた30余年間でもあった。
しかも、このアメリカ文明を下敷にして、それらのものが日本の風土の中へ根を張ろうとしたこころみが、いろいろと全国各地で実験されたわけであった。が、やっとこの頃になって、あるものはそれなりに定着し、あるものは改定を余儀なくされ、又あるものは放棄しなくてはならなくなった。というのが今日現実の姿のようである。
が、こと「住」の問題ばかりは、日本の風土性を離れて成り立つわけがない。この場合「住」とは広い意味でのことである。
処で、今日われわれが、町の中の造型物として、もっとも要求していものは一体何か。現代の大方の大衆の求めているものとは、どのようなものであろうか。私は、やはりかっての日本人がそうであったように、人と人とのふれあいであり、心の安らぎではないだろうか。一見俗的に響くこの言葉の意味するものは、言って見れば人間の生きて行く偽らない本音ではないだろうか。
この本音に応える造型物こそ、日本の町の中に求められるものであろう。われわれは、知らぬ他国の町作りのことを考える前に、先ず何よりも自分らの住む町のことを真剣に考えるべきではないのか。
金にさえなれば、名誉にさえなれば、世界中何処へでも行って、何でもする。それはそれで結構なことでもあろうが、ことはわれわれが生きて行く心の原点の問題である。こうした大事な問題にまで、そうした考えを入れることには、私はとてもついて行けないのだ。
われわれの先人らは、その苦しい生活の中で、様々なことを考え、実行して、立派な見本を多く残していてくれたのであった。
町に大火があれば、二度とそうしたことのないように、その町の辻に常夜燈を建て、住民の無事と平和を祈ったのであった。又旅人のためには、
旅の安全と道路の標識を兼ねて、道祖神又は道標を建立したし、又は今で言えばさしあたり自動車ということになろうが、荷馬車、そのエンジンとも言える馬、その馬の冥福を祈って、街道筋に夥しい馬頭観音を建立したのであった。
昨今各地に見るのであるが、スクラップになった中古車がうず高く集積してある風景、それは何んと味気のない寒む寒むとした風景であることか。こうした風景こそ、物量にもの言わせる、アメリカ文明の行手をさし示す象徴的風景ではないだろうか。
「新しい」という言葉に酔って、戦後各地に建った、都市空間における造型物も、すでにその何程かは、スクラップにもひとしい見苦しい姿を白日のもとにさらしているのである。そしてそれが巨大であればある程に、撤去もならず困り果てているというのが偽らざる陰の声である。

その後もあとを絶たないこれ等造型物のコンクール等も、益々大形化され、一点出品する費用が、何んと数百万円もかかるという馬鹿々々しさである。一体何のためにするのか、私には理解に苦しむばかりである。
そく
やはり、自然の中に置くのは石が一番いい。そして即それが町の機能に導入されて行くのがいい。そして心の安まるものであれば尚いい。今一つ付け加えるとすれば、作者が顔を出さないでいるものが最高にいい。
いずれにしても、「阪急日生ニュータウン」の作りは、現代日本の新しい町作りは如何にあるべきか?という貴重な一つの答えをしていると同時に、今後の町作りにある種の方向を示している仕事であろうと私は信じている。

あとがき

●終戦以来、私の考え続けて来た「町作りの中の造型」の作品も、現実に置かれる場所がなければ、何の意味もないのである。又場所は提供していただいても、作品が無ければ之又、何の意味もない。「阪急日生ニュータウ「ン」の石彫の仕事は、私にとって、又とないかけがえのない幸運な場所であった。日生は私の作品に、何一つ文句をつけなかったのも感激であった。五年来の仕事も一応の数になったので、ひとまず作品集としておくことにした。前に出した作品集の中の作品と若干重複するものもあるけれど、之は之で一冊にした方が見よいのでこのようにした次才である。

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