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第7章 木材供給の歴史

10.江戸城の用材

さてここで江戸城を例にして、一つの建物をつくるとき、木材がいかに大量に使われるか、ということを考えてみよう。 江戸城のはじまりは古代末期の千百年代前半にさかのぼる。江戸四郎重継が、いま皇居の東御苑と呼んでいる旧江戸城本丸台地のあたりに、居館を建てたときだとされている。この豪族の館は、室町時代に太田道灌の手で中世城郭の江戸城にと模様替えされた。戦国時代に入って、この城主は太田から扇谷上杉、小田原北条へ、そして織豊時代に徳川へと入れ替わった。 徳川幕府の開祖家康の入城は天正十八年(一五九〇年)である。このときから、秀忠、家光まで三代四十余年にわたり、江戸城を幕政の本拠とするため城内の増築と改装および城外の整備が行われた。工事は寛永十三年(一六三六年)に一応完成し、日本最大の近世城郭として、五層の天守閣を中心に、本丸の各殿舎が整ったのである。 徳川幕府が倒れたのち江戸城は、明治元年(一八六八年)に「東京城」に、翌年に「皇城」、さらに同二十一年(一八八八年)には「宮城」と改称された。江戸城に最後まで残った殿舎は、西丸仮御殿だけであった。これは文久三年(一八六三年)の炎上後の翌年、応急的に再建されたものである。ここに明治元年に皇居が移る。同六年その西丸仮御殿も焼失し、江戸城の命脈は幕府政権倒壊のあとを追ったのである。 徳川将軍以後の江戸城は、内部だけで広さ三十万坪(九十一万平方メートル)余り、大阪城ならその外郭までを、すっぽり呑み込んでしまうほどの巨大さであった。 江戸城の内郭の主な建物は、延べ面積で天守閣四百七十坪(千五百五十一平方メートル)、本丸御殿一万一千三百七十坪(三万七千五百二十一平方メートル)、西丸御殿六千五百七十坪(二万一千六百八十一平方メートル)であった。 本丸御殿の内部は、幕府政事の「表向」、将軍公邸の「中奥向」、将軍私邸の「大奥」からなっていた。西丸御殿は前将軍の大御所、あるいは現将軍の世嗣が住むところで、内部構造は本丸御殿とほぼ同じである。 幕府軍事政権の本拠であり、将軍の居館でもあった江戸城は、それにふさわしい威容と堅塁を誇っていたが、そのまわりには、大名の邸宅や急速に発展した町並みが密集していたため、城内が火元でなくても、城外の火災によって類焼に遭うことがしばしばであった。 日本一の天守閣は明暦三年(一六五七年)の振袖火事で類焼し、ついに再建されずに終わった。広大な本丸御殿は慶長の完成後から五度焼失し、その間に改造と再建とが、合計して六回も繰り返されたが、文久三年(一八六三年)の焼失を最後に姿を消した。西丸御殿は後に太平洋戦争の空襲で被災するまでに、実に六度焼失し、改築と再建が八回も行われている。 江戸城の本丸御殿は、創建当時の東大寺大仏殿にくらべると八・三倍、西丸御殿でも四・八倍の大きさであった。

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