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第5章広葉樹像の系譜と大陸との交流

4.チャンチンからオウチヘ

前節では、センダンの秘密について私なりの推論を書いた。その筋書はオウチのような雑木が仏像の用材に選ばれ、不似合いなセンダンという美しい名前を貰った理由は、中国から輸入されたチャンチンがそのきっかけを作ったのではないかというものであった。チャンチンはもともと中国原産の樹木であるが、今では南九州あたりにかなり多く植栽されている(重松義則「山林」823号、昭二七)。それが何時ごろから渡来したかは明らかではないけれども、これに関連して元奈良女子大学教授小清水卓二博士の次のような興味深い調査がある。
 吉野の金峰山は平安初期から修験道の聖地として有名であるが、そこの蔵王堂には古くからツツジと言い伝えられている太い柱がある。ツツジにそんな大木はないはずだから、材質を調べたところ、チャンチンであることが判明したというのである。そのことから次のような推測が出てくる。一つはこの柱が中国から献上されたという考え方、もう一つはもっと早い時期にチャンチンが中国から渡来していて、当時すでにこの程度の大木にまで生長していたという考え方である。そのいずれであるかは明らかでないけれども、蔵王堂の一番重要な柱にチャンチンが使われていたという事実は、当時この木が珍重されていたことを証明する有力な資料と考えてよかろう。とすれば、中国でこの木を使って仏像を彫っていた可能性は、かなり強そうに思えるのである。
 さて話はオウチのことに戻るが、この木は現在街路樹として植えられているところをみると、当時においてもかなり身近なところに生えていたとみてよかろう。『万葉集』の中で、大伴旅人が大宰帥として筑紫に在任中、その妻を亡くしたときに、山上憶良が詠んだ「妹が見し 楝の花は散りぬべし わが泣く涙いまだ干なくに」という歌がある。これからみるとオウチはその頃はまだ生活の中で親しみ深い木であったと思われる。それが後に獄門で代表されるような忌木に転落していった皮肉な運命の由来は、私の知り得るところではないが、いずれにしてもオウチが、仏像に彫られた時期は比較的短かったようである。いま仮に輸入されたチャンチンを源流であると認めれば、チャンチン→オウチ→ケヤキ→ハリギリという推移のしかたは妥当な道筋に思えるのである。以上に述べたのは、ケヤキ系の用材が導入された経緯についての私の推論であった。
 なおここでオウチが忌木になった理由について、興味ある解釈を教えてくれた方があるので付記しておこう。仏像の用材を使ってさらし首の台にしたというのはいかにも日本的だ。それは死者へのあわれみだが、そういう発想はヨーロッパなら絶対にない。『歎異抄』の「善人なおもて往生す。いわんや悪人おや」と同じような発想と解釈すればよい、とのことであった。あるいはそうなのかも知れない。

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