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第2章 木の文化のルーツ

3.木の来た道

以上のような考え方をしてくると、日本とヨーロッパでは材料の配列のうえで逆の方向から進んで来たのではないかという気がする。つまり日本人は生物材料から鉱物材料に向かい、ヨーロッパ人は鉱物材料から生物材料に向かってきたという意味である。以下に述べるのは日本人が木とともに歩んで来た道を、仏像の用材を通して私の調査した結果から導き出した一つの仮説である。 はじめに、私たちの祖先が木とどのようなかかわりを持っていたか、から書くことにしよう。『古事記』および『日本書紀』をみると、その中に書かれている樹種は五十三種もあって、二十七科四十属にも及んでいるという(大野俊一「日本林学会誌」16・4、昭九)。今日いわゆる有用樹種といわれているヒノキ、マツ、スギ、クスノキなどを始めとして、十数種類がそのなかに含まれている。なかでも特に興味が深いのは『日本書紀』神代の巻の、スサノオノミコトの説話である。それには、「韓郷の嶋には、これ金銀あり。たとひ吾が児の所御す国に、浮宝(舟)有らずば、未だ佳からじ」とのたまひて、乃ち鬚髯を抜きて散つ。即ち、杉となる。また、胸の毛を抜き散つ。これ檜になる。尻の毛は、これ柀になる。眉の毛は、これ樟になる。すでにしてその用ひるべきものを定む。すなはち稱してのたまはく。「杉および樟、この両の樹は、もつて浮宝(舟)とすべし。檜はもつて瑞宮(宮殿)をつくる材にすべし。柀はもつて顕見蒼生の奥津棄戸(廟)にもち臥さむ具(棺)にすべし。そのくらふべき八十木種、みなよく播し生う」とのたまふ。 とある。つまり日本は島国だから、舟がなくては困るだろう。そこでスギとヒノキとマキとクスノキを生んで、ヒノキは宮殿に、スギとクスは舟に、マキは棺に使えと、それぞれの用途を教えたというのである。 この説話からみると、日本にはじめてそうした樹種が生えてきたようにも考えられるが、『古事記』の中ではすでに八岐大蛇の背中にマツと柏が生えており、また『日本書紀』では大蛇の体にヒノキとスギが生えていた、と書いてあるので、これは植林したことを意味するのだろうという見解がとられている。 ところでここで興味深いのは、右に書いた記録が考古学的な立場からの調査と一致していることである。まずヒノキであるが、この木が建築用材として、太古以来もっとも多く使われてきていることは、伊勢神宮の例をとるまでもなく容易にうなずけることである。次はクスノキであるが、『日本書紀』にはクスノキの舟に蛭児をのせて順風に放ったと書いてあり、『古事記』にも同じ意味の記録がある。当時はクスの舟が水上の交通に重要な役割を果たしたであろうと想像されるが、そのことはこれまでに大阪を中心とする地域から発掘された古墳時代の舟が、ほとんどクスノキであることと一致している。 次はスギだが、垂仁天皇の御代にスギの舟が作られたという記録がある。また近畿地方と離れているが、同時代の登呂の遺跡から発掘された田舟、田下駄も同じスギ材である。縄文時代前期の福井県三方町の鳥浜貝塚から出土した丸木舟(四八ページ写真)は全長約六メートル、幅八十センチメートルという大きなものである。加工のしやすさから考えてもスギの使われていた可能性は高いとみてよかろう。次は最後のマキであるが、近畿地方の前方後円墳から出土する木棺は、ほとんど例外なくコウヤマキで作られていることが、尾中文彦博士によって明らかにされている(尾中文彦「木材保存」4・7、昭一四)。以上に述べたように、『古事記』『日本書紀』の記録は、考古学的な調査によって裏付けされているが、そのほかにも、これまでに古墳から発掘された各種の埋葬品や、遺跡からの出土品を調べてみると、それぞれの道具類は、ほぼ一定の樹種によって作られていることが分かってきている。例えば、有名な近畿地方の唐古の遺跡をみると、弓はイチイガシ、農具はアカガシ、櫛はツゲで作られている(尾中文彦「日本林学会講演集」昭一三)。 そのほかの遺跡の出土品をまとめると、弓にはカシ、トネリコ、ヤチダモ、サカキ、クワなどが使われており、また石斧の柄はほとんどがユズリハで、サカキ、ツバキ、シイノキ、ヤチダモ、トネリコなども使われている。食事用の椀類の用材はトチノキとケヤキで現在のわれわれの使い方と同じである。住居の土台にクリが使われていた例としては、千葉県加曾利塚や金沢市ちかもり遺跡をあげることができる。 なお昭和五十七年の暮れに奈良県明日香村の水落遺跡から、飛鳥時代の水時計の遺構が発掘されて話題になったが、これに使われていた水樋はコウヤマキであったと報告されている。これらの事実は当時の人たちが木に関して、かなり深い知識をもっていたことを物語るものである。 いま私は、古墳の木棺の用材にコウヤマキが使われていた、と書いた。コウヤマキというのは、ちょっと見たところでは、なんのへんてつもないごくふつうの木である。美しい木目もないし、芳香もない。だが水に対して強く、腐りにくいという特質をもっている。江戸時代の『和漢三才図会』にも水湿に強いことは書いてあるが、私はそれを、太古の時代の人たちがすでに知っていたという事実に、強い興味を覚えるのである。 戦前は風呂桶はほとんど木で作られていた。その用材は関東では高級品はヒノキ、普及品はサワラであった。ところが関西ではコウヤマキをもって最高の風呂桶材としていた。この点に興味をもって、私は以前に実験してみたことがある。その結果、この木は乾湿に対して狂いにくく、腐朽に強く、いつまでも木肌の色が変わらないことが証明された(小原二郎「木材工業」3・3、昭二二)。さすが実用本位の関西らしい選択だと感心したことを思い出す。白井光太郎博士の『樹木和名考』(昭八)にも「東都千住大橋の橋杭は、永禄年間に北条氏の架けたものであるが、コウヤマキで作られていて三百年余の使用に耐えた」「あまり長持ちするので、木ではなく化石であろうといわれた」と書いてある。 ところでコウヤマキという木は世界で一属一種の日本にのみ産する樹種である。その分布は九州から紀州までの西日本および中部の木曾地方のみに限られており、現在は蓄積量も少ない。しかし私はこの木は当時はもっと量も多く、日本民族が南日本で最初に発見した有用樹種の一つではなかったかと考えている。その理由は次のようである。 前にも書いた尾中博士は、韓国扶余の陵山里にある歴代の百済王の古墳の棺材を調べて、それらはいずれもコウヤマキで作られていることを明らかにした(尾中文彦「木材保存」7・4、昭一四)。コウヤマキが朝鮮半島に産しないことは前述したとおりであるから、当然日本から運ばれたもの、と考えなければならない。従って当時日本ではコウヤマキが棺材として尊ばれていたので、その風習が遠く海を越えて朝鮮にまで影響した、というのが尾中博士の推論である。 ところで私は、コウヤマキの棺が遠く朝鮮に運ばれたことを尾中先生から教えられたとき、最初は顕微鏡という小さな視野を通してしか見ていなかったので、なかなか実感が浮かばなかった。しかしその後、韓国公州の博物館で実物の棺を見て、想像を超えた大きさと立派さに驚いた。私の記憶では、長さは二メートルあまり、幅と深さは八十センチ、板の厚さは十センチ余りもあった。原木の大きさは相当なものであったろう。あんな立派なコウヤマキの大材は、いま日本で捜しても見付からないであろうが、太古の町代にああいう大材を海を越えて運んだ、という事実に驚くとともに、コウヤマキという木が棺に適していることを捜し出したわれわれの祖先に、一層深い興味をそそられるのである。* 福井県・鳥浜貝塚から出土した縄文時代前期の丸木舟(福井県立若狭歴史民俗資料館所蔵)

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