地域医療の範
羽山 維碩 ・ 羽山 直記
羽山維碩は文化5年(1808)に印南原村(現印南町印南原)に生まれました。幼い時の名前を芳之助と言います。維碩はその通称です。また号を大学と言いました。京都に出て医学を学び、帰ってから北塩屋浦(現塩屋町北塩屋)で開業しました。天保5年(1843)頃のことです.医師として一生懸命病人の治療に励んだため、日高郡では誰知らぬ者のないほど有名になりました。
嘉永3年(1850)蘭医によって長崎に牛痘(注釈1) がもたらされます。翌年それが和歌山藩に伝えられることとなり、これを知った維碩は天然痘予防の立場から、率先して牛痘を用いての種痘の普及に努力しました。維碩は種痘が有益でかつ無害であることを地域の人々に知らせるため、絵入りの冊子をつくって、それに種痘を受けた人で「万一天然痘にかかる人がいたなら、金5両と米一俵をさしあげます」と書きつけ、大いに宣伝に努めました。お蔭で日高郡は県内でも最も早く種痘が普及した地域となりました。
維碩はまた、大変よく効く置き薬を調合し製品化して人々に配布したことによっても知られています。維碩は明治11年(1878)に死没しました。享年70歳でした。残した著書には、近年評価の高まっている、幕末から明治維新までのわが国のさまざまな情報を求め得て記録した『彗星夢雑誌』(115冊)や随筆『杏花園雑記』があります。大学という号に相応しい著作です。
維碩の養子となった直記は弘化3年(1846)の生まれで、楠井村(現名田町楠井)出身の人です。養父の維碩から漢学の手ほどきを受け、のち大阪の緒方洪庵の門に入って蘭学を修めます。帰郷して、いったん開業しますが、再び和歌山医学校に入学して医学を学びます。その後、明治12年(1879)塩屋村で開業して、最新の医学知識と技術を駆使して患者の治療に励み、名医として広く知られるようになりました。直記は人々に推されて塩屋村の村長も勤めますが、その折、自ら養蚕の手本を示し養蚕業の振興に尽力します。
その結果、養蚕の功労によって表彰を受けました。ものに執着しない直記の性格も人々の語り草になっています。
直記の子息はいずれもとびっきりの秀才で、その多くは医学を志しますが、惜しいことに学業半ばで病を得て夭折します。ことに長男の繁太郎と二男の蕃次郎は世界的博物学者南方熊楠と深い親交を結んでいたことによって知られています。
注釈1: 牛の天然痘。その痘毒を人体に接種し、天然痘の予防に用います。
晩年の羽山 維碩(大学)