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稲盛和夫さんの追悼

稲盛和夫氏追悼記念集

稲盛和夫さんがお亡くなりになって1年が過ぎたころ、1周忌と「第三回心をたかめる経営を伸ばす世界大会」を合わせ、追悼記念誌の作成が持ち上がったのでしょう。事務局から追悼集の依頼の連絡を受けました。私は盛和塾は息子に譲り退会していたのですが、1996年の全国大会に北大阪の代表として経営者体験発表に出させて頂いた関係から声がかかったものです。記念誌の内容すばらしいもので、基本的には盛和塾関係者しか見る事はないとおもいますので、ここで簡単にご紹介させて頂きます。また私が寄稿した文章はそのまま掲載いたします。
追悼記念誌 世界大会
稲盛和夫氏追悼記念誌 表紙
稲盛和夫氏追悼記念誌 裏表紙

目次

はじめに              007
1章 気づく             110
教えを衝撃的に受け止める
     
2章 学ぶ              125
教えを咀嚼し、根本理解をする

3章 深める             212
学びを拡大し、自らのものとする

4章 変わる             343
教えを受けて、自己変革をはかる

5章 進める             429
教えをもとに、事業変革を行う

6章 高める             467
教えを契機に、人格錬磨を果たす

7章 伸ばす             529
学びを活かし、事業拡大に結実させる

おわりに              583

寄稿者索引             585

はじめに

2022年8月24日に稲盛塾長がお亡くなりになられてから1年が経ちました。 この間、ひたすら塾長が我々塾生に託してくださったのは何だったのか、考え続け てきました。そこで、我々塾生は塾長から何を学んだのか、塾長の真の教えを探る べく、一周忌を迎える「第三回心を高める経営を伸ばす世界大会」に合わせて追悼 記念誌に掲載する寄稿文を募集したところ、265名の塾生から、塾長への感謝 の大合唱のような寄稿文が世界中から集まりました。
今年は盛和塾の前身、盛友塾が京都でスタートしてから40周年となります。盛友 塾発足以来、塾長は繰り返し繰り返し「愛と誠と調和」がいかに重要か説いておら れました。実際に塾長は京セラ様、KDDI様、日本航空様などの経営を通じて、 そして盛和塾において、 「愛と誠と調和」を体現しておられました。 今回皆さんの 寄稿文を通して、まさにこれが塾長のおっしゃりたかった、とらえどころのない「愛 と誠と調和」が形を成したものなのだということを実感致しました。
それは、寄稿者お一人お一人が真摯に自己と塾長の教えを照らし合わせ、心の底 から発露した「真善美」を表現されたものだからだと思います。この純粋で美しい 善意の寄稿 265編、一般的な出版物に比べると100倍近くの総量に相当する膨大 で多様な原稿に、素晴らしい編集チームが寄稿者の純粋な思いや熱意を損なわない ように誠実に、見事に筋道をつけてくださった様はまさに美しく、 「愛と誠と調和」 が体現された本書を皆様方のお手元にお届けできることを誇りに思います。

2023年11月

心を高める経営を伸ばす世界大会連絡事務局

寄稿追悼文 74ページからです

野球の投球フォームの真似をして
「あんたはフォームから入らないといけない」と

車を運転中にテレビで京セラ・・・日本航空・・・そして稲盛さんの名前が出た時、思わず車を路肩に止めて画面に見入りました。ご高齢のこともあり覚悟はしていましたが、一瞬に悲しみが心の中に染み拡がりました。偉大な経営者で、哲学があり、私心なしで社会に貢献された方は他にいないでしよう。こんな簡単な放送・報道でいいのか、という無念さも出てきました。
その後、新聞やテレビ、ネット記事を見ると、稲盛和夫さんが亡くなり、彼に関係のある人や彼を知る人たちだけで悲しみが広がっているようです。
この時、私はヘミングウェイの小説「誰が為に鐘は鳴る」を思い出しました。この小説では、「主人公の死は、あなたの中で生き続ける」と説いているように、稲盛さんは私たちの心の中で生き続けると思います。
また、小説の冒頭にあるジョン・ダンの詩は、一人の人間の死が、その人と私たち自身の一部分が失われることを表現しています。それと同じように、稲盛さんを亡くしたことは、日本全体の苦悩や絶望を象徴していると思います。稲盛さんが関わった携帯電話、カメラ、日本航空、サッカー、慈善活動、考え方や哲学など、日本人なら何かしらで稲盛さんから恩恵や影響を受けたはずです。そのため、私たち全ての日本人の上に弔鐘が鳴っていると思います。

私は盛和塾北大阪に入塾し、他の塾生と同様に経営の勉強をしました。松下幸之助、中村天風、D.カーネギーなどの本はほとんど読んでいましたので、共通する点も多く、稲盛さんの考えは素直に理解が出来ました。ただ、ためらいもありました。私が32歳の時に参加した、R.ホワイト氏が主宰する自己啓発セミナーは、私にとって貴重な体験を得たものの、洗脳されたといわれても仕方がないような状態に陥りました。このときの高揚感と同様の心の高まりを塾長の話や本から感じました。それであえてのめり込む(夢中になる)のを抑え、理論ばかりの頭でっかちにならないようにしていました。そのため他の塾生から1~2歩あとを行くというような塾生でしたが、塾長のさまざまな言葉や話に感動や驚き、また納得したりしました。一番感銘を受けた言葉と全国大会の体験談を書かせていただきます。

一 誰にも負けない努力をする
塾長の講話の中で最も感銘を受けた言葉は「誰にも負けない努力をする」です。同時に「終電車で帰り、始発で出勤した」のお話もありました。終電はできても、始発は無理だと思いましたが、努力することは間違っていない、という自信が付きました。というのは努力はしていたつもりでしたが、学校の成績や高校の柔道、大学の卓球とスポーツでは結果が出せず、負けが続いていましたから。
そして、「誰にも負けない」と塾長が語られたのは驚きでした。塾長ほどの人が他の人と同じ競争ラインに立ち、負けてはならないという覚悟と情熱を持ちつづけてこられたのです。恥じ入りました。自分には未熟さがあるので周囲の誰にも負けない努力を続ける必要があると決心しました。
幸い仕事は総合力で、時間の制限もないため、自分には合うと感じ考えたのは、他の経営者が思う常識にとらわれず、自分なりの実践をすることと、働く時間を長く、また大切にすることです。これらを実践することで、「誰にも負けない努力をする」ことができると考えました。
当時得意先は建設建築関係でしたので接待ゴルフが多く、週に2〜3回もゴルフに行っていましたが、まずゴルフは一切しないと宣言をしました。また、同業他社との旅行、観戦、OB活動を止め、異業種の会や経済団体も多くは退会しました。人付き合いが悪くなってしまったという言葉も、自分の努力を誇る言葉と比べれば意味が薄れてしまいます。
私は社員に「誰にも負けない努力をするように」とは話しませんでしたが、私自身が精力的に仕事に取り組む姿勢を示したことで、社員たちも自然と遅くまで働くようになりました。当時、私たちは木材流通から木製品メーカーへの業態転換を目指し、日本初の組立キットのウッドデッキを開発し販売を始めましたが、試行錯誤の中で多くの仕事があり、定時には仕事を終えることはありませんでした。そのため、三名の女性社員たちも深夜0時過ぎまで働き、朝8時には出勤するという過酷な状況でした。しかしながら、当時の時代背景や状況を鑑みれば、今で言うブラック企業であったと言えますが、社員たちは自発的に頑張っていました。私自身も同様に責任感を持って仕事に取り組み、社員たちも仕事に対して意欲的で、その面白さを口々に話していました。
盛和塾北大阪で社員の頑張りを話した後、ある時、塾生である原さん(旭電機化成)が深夜0時前に会社を訪ねてきました。応接室で原さんと話をしていたところ、女性社員がお茶を入れて持ってきてくれました。彼は「本当に女性までこんなに遅くまで働いているんですね」と言いました。彼の言葉で、私や社員が誰にも負けない努力をしているという実感がわいたのです。
3年間ほどはこんな状況でしたが、労働基準法を知り、規定内に収めるように改善しました。私は労働基準法に引っ掛からないので、現在も朝8時までには出勤し、その日の最後に閉門と鍵をかけています。
縁があって大阪公立大学の工学部で、非常勤講師を十年間続けています。講義の限られた時間の中で「稲盛さんの誰にも負けない努力をする」の話も伝えています。

二 全国大会の発表
盛和塾北大阪の欠野代表はすばらしいリーダーシップをもった方で、また自分の内面まで見透かされてしまうような力を持った人と思います。2回~4回の全国大会に発表する塾生を見ていると、自分も成功して、発表できるくらいになりたいという思いはありました。でも二十年くらい先だろうと。それで盛和塾北大阪での発表候補を選ぶためのアンケートに消極的な返事を書きました。「会社が成功したら出場したい、そのために今は勉強中です」のようなことを書いたと記憶しています。すると翌日代表からの連絡で、その回答を逆手に取られ、まるで催眠術にかかったように北大阪の予選に出ることになったのです。ここでも自信はまったくなかったのですが、気が付いたら全国大会への発表者となっていました。
1996年草津での盛和塾経営者体験発表の8人のひとりとして稲盛さんに指導を受けることになりました。それまで稲盛さんの数多くの講演や、二度ほど盛和塾のコンパで身近に話はできましたが、当然のことながらいつも人だかりで十分な話ができません。しかし全国大会では私の話を30分間聞いてくださり、15分間の指導や助言をしてくださいます。
他の経営者には経営の具体的な指導なのですが、なぜか私だけは容姿についての話でした。過去にも容姿について指摘された塾生はいないと思います。私は身長160センチたらずで大きな稲盛さんからみれば子供のように見えたのでしょうか。
「そんなトッチャン坊やみたいな髪型はいかん! チックでもつけて七・三に分けなさい」
思いもよらない言葉に驚きましたが、会場は大爆笑です。その後三~四回お会いする機会があったのですが、その初回には「あのとき俺はあんなことを言ったけど、それはこういう意味があったんや」と鹿児島弁で矢継ぎ早に話されます。また次に会った時には席から立ちあがって、野球の投球フォームの真似をして「あんたはフォームから入らないといけない」と。
感激しました、今まで考えてもみなかった、自分の見た目についての指摘。そしてそれが社長としていかに大切なことであることを。そしてまた、大会後で日が経ているにもかかわらず、ひとりの塾生に対してまで、最大の配慮と細かい気遣いをしてくれたことに言葉にできない感謝の気持ちでいっぱいになりました。

稲盛塾長は私が人生を終えるまで心の中で大きく存在しているでしょう。また、父のように常に近くにいるという感覚です。余談ですが、当社のパート従業員に鹿児島出身者がおり、声と鹿児島弁の話し方が塾長とそっくりです。毎朝の朝礼で当日の仕事内容を発言しているのを聞くと塾長が話している錯覚に陥ることがあります。当社は90歳まで働いてくれた従業員が2人いますが、彼も健康な限り会社にいてくれるでしょう。私が生きている間、常に塾長の声を聞くことができそうです。
稲盛さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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