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万博とインドネシア

万博時代

日本万国博覧会(大阪万博)がまず最初

1970年に大阪に万国博覧会(俗に言う千里万博)が開催されました。
外国にあこがれていた私は、何度もこの博覧会を見学したいと願っていました。それにはアルバイトで働くのが一番と思い、探し始めていました。

そのようなときに 同じ大学の友人の近藤信武さんがテレビ関係の大阪東通へのアルバイトに誘ってくれました、 多分1970年の2月頃だったと思います。会場へ行き説明を聞きますと仕事は「お祭り広場」の進行役でした。
開会に備えて何度か会場に行き、仕事のあとは、いろいろなパビリオンを見学したものです。
特に開会2-3日前のプレスレビューでは甲南大学の新聞部などと言っていくつかのパビリオンを見学させて いただきました。
開会式では野外劇場の自衛隊人への祝砲の合図を送る役割をしました。まだ子供のようなものでしたので このキューを出す簡単な仕事に非常に緊張し一生に一度の大事なことのように感じました。
会期が始まり1週間ほどで大阪東通から日本万国博覧会協会へ手伝に行けということで50名の人と共に 協会に出向しました。当時大阪東通の時給は450円だったのが、協会で働くと400円に下がってしましました。
出向期間の1カ月が過ぎて、大阪東通に戻るときに、私は東通へは戻りませんでした。私以外の人は時給の高い 大阪東通に戻ったのですが、私は協会の方が時給は安いが面白い思ったのでした。なぜならお祭り広場の楽屋での勤務は多くの芸能人の接待役もしますので楽しいと思ったのです。

大阪万博の同窓会 2003年

2000年の万博同窓会、鈴木元事務総長(のちの東京都知事)です。

また協会というのは大阪市、 大阪府、銀行、警察、大手企業等からの出向されている方々で構成されていて、将来の自分のネットワークやコネ をつくれる考えたのでした。
しばらくして、万国博覧会協会の方は、アルバイトであった私を職員にしてくださいました。
そのようにして万博会場内の生活がはじまったのです。

お祭り広場の楽屋は非常に広いものでしたが、楽屋事務所は1坪もないような事務所でした。そこに楽屋長と私(チーフという位置づけ)、アルバイト2名の4人で楽屋業務を切り回していました。

2017年現在、私と関係のあった方々、すべて上司になりますが、トップの鈴木(後に都知事になる)さん始め多くの方はなくなっています。ある時から、職員の同窓会が開かれるようになり、3-4回開催されたと思います。迎賓館で開かれました。

 

芸能人にも気が乗らず

万国博覧会での仕事の目的のひとつに外国の人と友人になりたい、言葉を覚えたいと思っていましたので、 いろいろな人と接触を始めました。お祭り広場に出演する外国人と身振り手振り、そしてスケッチブック (絵を書いて意志の疎通をするためです)。

お祭り広場では参加各国のナショナルデーが1回必ずありますから、 2-3日に一回は外国の人が大勢楽屋に集まります。そのような時は、日本の有名な芸能人でも接待に気がのらず、 一般の外国人担当の人と変わってもらったりしました。

大阪万博の同窓会 2003年

同じ会場です。 2003年の日本万国博覧会(万博)職員同窓会、スピーチするのは宝塚歌劇 殿堂入りしている渡辺先生。

最初に接触したのはチェコスロバキアの軍人の人でした。いろいろ苦労しましたが挨拶言葉を覚えました。
つぎにイランの人、この人たちからはペルシャ語を教えてもらいました。そのうちに英語が一番重要と思う ようになったのですが、なかなか話せるようになりません。このような時に協会職員のジョージ バックリさんが インドネシア人ということがわかり、言葉を少し教えてもらいました。その覚えた言葉をインドネシア館で使いましたら、 相手はたいそう喜んでくれました。

ちなみに当時の芸能の方で接待した方は島倉千代子さん、由美かおるさん、加茂さくらさん、辺見マリさん、天知総子さんなどです。

 

イントネシアのホステスは美人ぞろい

当時インドネシア館では200名のインドネシア人が
いましたから、いろいろな人に話しました。ホステス(現代ではコンパニオンと言う)、踊り子、歌手の女性の人たちは とても美人で、近づく目的で、言葉を覚えたいと話したらどの人も親切に教えてくれるのです。その内に面白くなって 本格的に勉強しだしました。インドネシア語の本を購入してきましたが、ぜんぜん役に立ちません。彼らが話している 会話と教科書の内容が違うのです。たとえば大阪弁と日本の江戸時代の古語との違いのようです。
私が教科書を読んだら、みんな笑い転げます。
それで考えたあげく、協会の最初の給料でカセットテレコを購入しました。当時で給料の1/3か1/2ぐらいしました。
一人のホステスに教科書の中のわかりやすい表現や会話を20分ぐらい話してもらい録音しました。
その日から、食事中、便所の最中、入浴中、車の運転、寝る前など仕事以外のときはすべて、イヤホーンで録音された インドネシア語を聞きました。すると、約1カ月経過したときに、自分の口からインドネシア語がポンポンと飛び出て きます。そして簡単な話は出来るようになったのです。それからは会期中毎日インドイネシア館に入り浸りでした。
もちろんお祭り広場の仕事はきっちりしました。あとで聞いた話では上司の人たちは、「インドネシア館に毎日入り 浸りになり、彼女でも出来ているのとちがうか、でも仕事はよく働くから大目にみてやろか」と話していたそうです。

 

自宅で何度もパーテイを開く

その内にたくさんの友人ができてきました。あるときホステスのティティさんとティニさんとを 自宅に招待したところ、大変よろこばれ、あれよあれよと言う間に述べ人数で百人は超えたでしょうか。
サヨナラパーテイで
会期最後の日にインドネシア館でパーティがありました。日本人で2人表彰されたが、 会期最後の日はあちこちのパビリオンでサヨナラパーティがあり、ティティさんからインドネシア館に来るよう 強い誘いがありました。仕事が終わってすぐに行きましたら、パーティはほぼ終わりかけで 最後の表彰をするというのです。インドネシアパピリオン二百名の中から何人かが呼ばれ 表彰を受け始めました。
そのとき議長がオニイチャンと呼ぶではありませんか。私の名前はインドネシア館ではオニイで 通っていましたので、びっくりしました。まわりのホステスさんから早く前に出なさいと 催促をうけ表彰台に上がったのでした。確か全員で八名ぐらい選ばれ、日本人で三名選ばれましたが 私だけが部外者でした。


その時は甲南大学の4年回生で卓球部の最終年度でした。卓球部で一番楽ができるときでしたが、 クラブを止めて、万博でアルバイトをしてつたよかったと本当にも思いました。
この時のインドネシア館の関係者の写真がたくさんあります。一部公開します。

その後協会職員は協会業務の残務整理などがあり、翌年の1月ころまで努めたと思います。会場の解体は非常に寂しいものがありました。

 

東南アジア視察旅行

その年年末に近く、熱帯林業協会主催の東南アジア視察旅行がありました。
父が今後アジアの木材を輸入する時代だからとその旅行に参加をきめ、通訳に私を同行させたのです。
私はインドネシア館で通じても、現地では通じないのではと心配でしたが、友人に再開できるので 喜んで同行しました。
フィリピン、インドネシア、シンガポール、マレーシア、タイと強行スケジュールでしたが、 インドネシアで二泊しましたが、会話は問題なく通じました。
その旅行がよかったものですから、またインドネシアに行きたいと思うようになり、 翌年就職がニチメンの子会社決まっていましたが、私のインドネシアで働きたい希望が ニチメンの本部の方に届き、急遽三月からニチメンに中間入社しました。
六月まで大阪で貿易実務の勉強や名古屋の合板工場の勉強などをしてインドネシアへいったのです。

 

着いた翌日から一人で歩きまわる

到着後翌日から友人たちの家を訪ねてまわりました。これにはニチメンの先輩方もびっくりされていました。
しばらくして困ったことが起こりました。当時駐在員は言葉が出来ないので、ジャカルタに到着すると インドネシア語を先生について勉強するのです。私も先輩と一緒に行ったのですが、
先生は英語でインドネシア語を教えてくれるのです。私は先生のインドネシア語はわかるのですが 英語がわからないため、ちっとも勉強になりません。会社の人にこの話をしたら大笑いになりました。
結局二三度の勉強だけでおわりました。先生は独身美人のオニイ先生です。残念なことをしました。