まことに淋しいことである。
故中川氏は、昭和五十八年秋に黄綬褒章を受章し、またいくつかの木材流通関係の名著を世におくるなど、材界の少い理論と実践の人といわれていた。
陰ながらその活躍を祈っていた矢先の訃報で意外に若くあまりにも急なことであった。
私がはじめてお逢いしたのは、昭和三十六年夏、大阪営林局事業部長に赴任し木材会館で大青協の皆さんに御挨拶を申し上げた時である。
氏は私の在阪中大青協の会長、前会長の要職にあって交遊を頂いた。
この年は木材価格安定対策として緊急増伐や、木材輸入拡大などの施策もとられた。
このような材界激動の中で僅か一年半の在阪であったが、今もおな、想い浮べる出来事が多くそれにかかわって氏の面影が脳裏に深く残っている。
氏は旧制三重高農林学科卒業の同じ専友人であることもあって格別の親しみをもって交遊して頂いた。
私も割合気安くいろいろ教示を仰ぐことが出来て大変御世話になった。
氏はなかなかのアイディアマンであったとの思い出が強い。
三十六年の九月、大阪は第二室戸台風の直撃をうけ、災害後旧材のことが大きな課題となった氏はそれとなく「十五、六台の車に製品を積んで、デモでもやって持込んだら市民も安心するよ」とアイディアを出してくれた。
早速山崎営林署管内の製材業界に頼み「災害後旧材」と大書した旗を起て、車を連ねて乗り込み大阪城前の広場で業界に製品を引渡してもらった。
大阪木材市場協会も価格ストップを申し合せるなどもあり格別な問題も起きることなく切抜けることが出来た。
営林局は三十六年末、大阪市場の需給と流通の実態調査を企画し、組織と活動力にすぐれた大青協に調査を委託した。
調査は中川、若木寛、浅野寛氏と三代の会長によって進められ、その結果を「大阪木材需給構造に関する諸考察」として公にされた、本書には調査の経緯や、苦労の程がにじみでていて、大変なご迷惑をかけたことをあらためてお詫びをし謝意を表する次第である。
氏と私が前後にお逢いしたのは、六十三年四月辻井木材株創立百周年記念祝賀会の席上であった。
さくらのほころぶ美しい京都を眺めながら暫し歓談した。
話題は三十年前の事や当時の同志の近況などであったが一度大阪にきてほしい、その時は仲間を集めて一席やろうと誘ってくれたがついに果すことが出来ず無念でもある。
何れにしても氏が常時和顔で人に接する容姿は今もなお鮮烈な印象として残っている。
このたび二百余人の思い出を追悼録としてまとめられるのは後世の人々に沢山のことを教えてくれるにちがいないと思いつつ擱筆する。