五十年程昔、関関馬術対抗戦の時である。
◆◆◆長い大戦に敗れて廃墟と瓦礫の中に三頭の痩馬と空腹の同志を叫合して「大阪馬術研究会即大阪府馬連」を創ったのが中川さんである。
それは今日の栄光への先見の導火線であったと思う。
当時引き受け手のない全日本選手権大会を再三乞われる儘引き受け成功させた事は中川さんの初代理事長として面目躍如である。
大阪馬研は二転、三転その都度充実、拡張、府馬連も追随し今や日本の覇を唱える迄に成長した。
四十五年には常陸の宮様の御来駕の下二〇〇〇〇坪の馬場を開場し五十八年には百頭余の代表的な俊馬の集う華麗な全日本選手権大会を鶴見馬場に展開した。
「イヨウ絶景やな人工森の向うが生駒山か」二階貴賓室で竹田元宮様会長と席を並べた中川さんの感激の声である。
桜川の大阪馬研の仮厩の裸電球から三十余年、初代中川理事長を柱にその衣鉢を継いだ関係役員諸氏の「和」と「忍耐」「努力」の結晶である。
◆◆◆◆◆六十三年は「ソウル」オリンピックの話題で始まり夏の日本はその頂点で沸いた。
九月七日、大阪馬術選手団の壮行会が行われた。
選手等は明日「ソウル」に翔立つと聞く。
広い会場も関係者で埋った。
無理もない、日本選手団の大半は大阪府馬連に育った人等である。
栄光に輝く選手の真紅の上衣が歓呼の会場に舞って居る。
その時私は中川さんの訃報を聞いた。
世人は之を「無情」と云うのか。
私には「残酷」としか思えない。
赤と黒の羽根のついた矢車が頭の中を狂転した。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆その日は残暑の小雨の日だった。
教会も数々の仮設テントも会葬者で溢れていた。
賛美歌の流れる式場、今日も私は狂乱の黒と赤と涙の輪の中で自制にもがき乍ら偲んでいた。
中川さんは何時も「イヨウあのな植田」で話を始めた事、自分の名馬「ペガサス」の脚を止めても落ちこぼれて喘ぐ「ロシナンテ」の私の調馬索を放されなかった事。
己れを語らなかったし、乞われれば断れない人だっただけに要件が山積し遂に自分の時間を使い切ったのだろう。
◆◆◆ソウルの幕は開いた。
今日から馬の競技が始まる。
今頃は真紅の上衣の大阪の選手が歓呼の嵐のオリンピック会場に舞っている事だろう。
◆◆◆畏友は逝く。
一輪の白い菊を捧げた。
丸顔の童顔は半世紀の昔と一寸も変っていなかった。
笑顔が私に迫って来る。
「イヨウあのな植田俺は一足先に逝くけどな、馬の競技やないさかい、急ぐ事ないで、したい事は全部してからゆっくりでええで」合掌