中川さんには、私が大阪府の農林部に在職中折にふれ公私にわたり御指導を賜りましたが、昭和五十八年に府を退職し、羽曳野に新設された府立緑化センターに勤務していた五年間の思い出が、特に深く印象に残っております。
緑化センターは、大阪の街の緑を三倍にふやす府の施策を普及推進する機関として設置されたのですが、美原の木材団地に近いこともあって、お忙しい時間をさいて中川さんがたびたびお立寄り下さってましたが、ある時、ヤマザクラやクヌギなど樹皮の特徴を活かした木製椅子を、二階の部屋まで汗をふきふき運び込んで下さったことがありました。
樹木を扱う緑化センターらしさをとの御配慮からと思いますが、お陰で来所者から、さすが緑化センターらしいと喜んでもらい、なごやかな応待ができるようになりました。
その後、木材団地内の主要幹線道路や、ログハウス「やすら木」周辺の緑化について、緑化センターとしてお手伝いの機会があり、メタセコイア通り、サススベリ通り、ナンキンハゼ通りの三路線が、彩どりのある四季の道として完成され、また、「やすら木」周辺が、明るい落着いた雑木林風に整備されましたが、つねづね中川さんが、この団地は木材で生きる街でありながら、木材のモトである生きた緑がいかにも少ない。
この緑化事業をきっかけに緑に溢れる団地にしたいものだと言っておられましたが、「やすら木」周辺の雑木林づくりの際には、理事長室横の庭園を割愛してスペースを確保されるなど、緑化に対する並々ならぬ思い入れが、忘れられない思い出の一つであります。
また、ある時、コナラ大径材の皮つき円板を持参され、この材はコナラと思うが、ミズナラにも似ているしと、判定を依頼されたことがあり、農林技術センターの緑地研究室で顕微鏡によりコナラと同定してもらいましたが、木材の専門家であるが故により正確さを求められる真摯な学究肌の中川さんの一面にふれた私にとっては、忘れることできない貴重な教訓となって今でも心のなかに深くきざみこまれている出来事でした。
「木の街にみどりを」、中川さんの遺志が受け継がれ、緑豊かな木材団地が形成され、団地の発展と繁栄に寄与されていくこと願いながらつたない筆をおきます。
合掌