南港の貯木場はおろか府木連の建物あたりまで、水面を埋める夥しい大径木群やフル操業を続ける合板・製材工場を目のあたりにして衝撃的な驚きを覚えていた私は、あちこちで「大阪の木は海からとれる」とくちばしっては、林野庁や職場でたしなめられておりました。
その頃、自らも進出を予定されていて、木材コンビナート造成計画に関っておられた中川さんに、府庁でお目にかかったのが最初であったと思います。
ある時、またしてもその"ひんしゅく話"を持ち出す私に、「その通りです。
」とにこやかに答えられ、却ってどぎまぎしたことを、今でも鮮烈に思い出すことができます。
その後は他の分野に長く携っていて、再び親しく御指導いただくようになったのは昭和五九年からのことですが、往時に比べ木材産業は長い不況の中で、国の内外に多くの課題を抱え、木材の需要拡大にむけた厳しい努力がなされておりました。
専門家だけでなく家庭にいる人達まで、すべての人に木材の良さを知ってもらわなければ、と言われ続けていた中川さんが利用普及の拠点として"ウッドリーム大阪"を全国に先駆けて建設されたのは、数多い御功績の一つであります。
着工までの白熱した検討会の積み重ねと、本格木造施設を手がける機会のなくなった設計技術者に木材への理解を深めてもらうという意図を秘めた設計コンペ、更には部材の選択と利用法の吟味など文字通り適材を適所に、斬新な手法をこらして完成をみたのは、木を知り木をいとおしむ人だけが持つことのできる目くばりの結晶であると思います。
家族会員を含む「友の会」結成や子供木工教室から高度技術研修にいたる各種の催し、この種の施設では稀有なことといえる年間二万五千名を超える来訪者が示す、中川さんの木材復権への志に驚嘆のほかありません。
木材のすべてを訴え続けるであろうこの施設を通して、中川さんの御意志は、いつまでも多くの人々に受け継がれてゆくものと信じます。
突然の御入院の報せに驚きのおさまるいとまもなく訃報をおききし、痛惜にたえません。
いまはただ心からご冥福をお祈りいたしますと共に、中川さんが常に身をもって示された"専門家だけでなく、すべての人達に"木材や森林についての理解を得られるよう心を新たにすることが、御指導の一端におこたえできる唯一のみちであると思っております。