入院中の近畿大学病院に最後にお伺いした時は、もう集中治療室におられ、なかば意識もたえだえであったが、あの温顔は、いささかも変ることがなかった。
中川さんの血統のなかには亡くなられたお母さん、季さんからの温い基督教信仰の血と、同時にお父さん計三郎さんよりの、父祖より伝承された7代にわたる木材工業経営の経営能が流れていたのであろう。
中川さんは、8代目の若き伝承者として、晩年、中風になられた父君の仕事を盛りたてるとともに、その傍ら、学究の徒として、昭和32年~53年、三重大学農学部非常勤講師として、専門の「木材流通論」の講座を担当し、著書にも「木材流通とは-国産材時代への戦略」「木材流通が変わる・生き抜くための方策は-」などあり、とくに小篇ではあるが、「木偏百樹」という著書は、百科辞典にでてくる木偏の漢字を解説し、かたわら名前の由来から始めて、植物学的のみならず、文学的に解説したもので数版を重ねたものである。
例えば、「梧」(あおぎり)のところでは、私たちの若い頃から覚えた、「少年老い易く学成り難し」に始まり「階前の梧葉已に秋声」の詩を副えて、「梧」の字を紹介するなどである。
森を育て愛するの念から、関連会社や組合の理事長など多数の世話役を兼ねて活躍されたのも、あの誰にも愛されるパーソナリティの致すところであったろう。
中川さんのあの温容を思いだすごとに、考えられるのは、お母さん季さんの熱い基督教信仰から受けついだ血の濃い流れである。
そのお母さんの伝記「日日新たなり」を読むと、明治初年の頃、アメリカから導入された新鮮なピューリタニズムの流れのなかで、堅固な、土についた基督者としての生活が鮮やかに描かれている。
季さんの信仰は、家族の血肉に滲み込んで、自覚せざる基督者としてのパーソナリティが、おのずから熟成するといったタイプのものである。
お母さんは、このような古き良い時代の基督者とて、その家族の一人である中川さんを育てられたのである。
中川さんの温容がそのように私に語りかけているのである。