話がはずんだ時、酒飲みのくせに宴会嫌いの私、その上会費を受取ってもらえぬ身柄の私は、だまって家へ引上げて帰った。
帰宅して読書している所へ中川さんから電話があり、私が無事であることが分って安心したと言われた。
それっきりである。
それ以外のことは何も言われなかった。
私が帰った後、すぐそれに気付かれた中川さんは私が気分でも悪くなって倒れでもしていないかと案じて、トイレの中まで探して下さったらしい。
普通の人であれば、その電話の時に、多少の非難をこめた皮肉の一つも言われる所を、そんなことを一つも言われず何のこだわりもない淡々たる応対をされた。
その時私は「何てえらい人なんだろう」と泌々感服したものである。
接すれば接する程、中川さんの立派なお人柄を知って尊敬の念を深くした。
昭和四十四年三月末に、私は定年退職をした。
さっそく中川さんから、送別会をするからと言って大阪空港ホテルを招待された。
人数は多くはなかったが大変和やかな会であった。
気分が良くなった私は、「蛍の光」を下手な英語で歌ったところ、中川さんは子供のような熱心さで、それを覚えるから教えてくれといわれて再三声を張り上げて歌われた。
全く邪気のない童心そのままのお振舞であった。
確かに中川さんには、こういう旺盛な探究心があった。
その数日後に私は思いがけなく中川さんの生家、和歌山御坊のお宅へ訪ねる機会に恵まれた。
大きなお家へ一歩入れていただいたとたんに、その重厚な家風を感じた。
中川さんは、この家風と立派な家系、南方熊楠を偲ばせるご尊父、慈愛あふれる上品なご老母と会話する私は幸せを感じた。
この立派な家に生れ育たれた中川さんなればこそ、学者、実業家、紳士として大成されたのである。
中川さんの人間としての完成は、勿論中川さんご自身の修業によったものではありますが、輝子夫人の影響も大きかったことと想う。
中川さんはある時、ささやくように「私達は見合結婚です」と言われた。
意味深長である。
今のように本人同志二人が合意すればよいとは行かず、家が釣合うか、信仰はどうかと昔は中々厳しい問い合わせが行われたものである。
衣食足って礼節を知る人も多いが、中川さんのように衣食余って尚人倫を誤ることのない人はなかなか少いのではあるまいか。
おつき合いは短かったがありがたくなつかしい御仁であった。