昭和の日々を目いっぱい生きられた中川さんを偲ぶにふさわしい日です。
昭和は日本の歴史の中で最も波乱に富んだ時代の一つだったでしょう。
昭和天皇と大喪の礼に対し大勢の人が種々の意見を述べるのを聞きました。
特に国の内外に未だ残る天皇の戦争責任追求のわだかまりを聞くと心苦しい気持になります。
小学校で終戦を迎えた私達に戦争責任を感じる必要は無い筈ですが外国からの天皇非難が私にも向けられて居ると思うのは、私に私が日本と云う団塊の一片を構成していると云う基本意識があるからです。
良かれ悪しかれ日本の歴史文化の中に生まれ育れた一個体が全体を自分と不可分に考えるからです。
天皇は法的に日本を代表する政府等よりも、何よりも歴史に根を置く文化や情緒の面でこの団塊の象徴ですからその葬列に自分の身体のどこかが、抜け落ちた様な寂寥を感じるのです。
私が中川さんに初めてお会いしたのは昭和三十一年に日綿に入社し大阪本社木材部内地材係に配属され社会へ第一歩を踏み出した時でした。
木材商内の基本は何か、始めて教えていただいたのは中川さんによってです。
中川木材が防腐加工した米松杭丸太を大阪港湾局に納入する現場に立会った時の胸の高鳴りを今も忘れません。
この頃は未だ戦後の様相が世情に色濃く残って居り国土復興事業の端くれでお役に立っているのだと思いました。
その後商社は木材の爆発的需要増大に応えて大量の輸入材を扱う事となり、この間一角の知識を得た心算で生意気にも中川さんに種々議論をふきかける内にだんだんと中川さんの考えの因って来る源が木材に対するこよなく深い愛情に在る事に気が付きました。
日本は木の国、長い歴史に育れた木の文化の泉からこんこんと流れ出る汲めども尽きぬ愛情です。
偶々豊中の御住居の近くに住む幸運に恵まれて令夫人を始め御家族の暖いお家柄にも接しました。
中川さんは木材の仕事をされただけでなく、三人の御子息達は勿論の事大勢の木材人を育まれました。
これも木材と云う文化への深い愛情に繋がっているのでしょう。
昭和最後の年に我が木材大陸から一片の大きな塊が波に洗われて水没して行きました。
弔鐘が私達の上に鳴って居ます。
ヘミングウェイの小説で映画で有名になった「誰が為に鐘は鳴る」と云う言葉を思い出しました。
たしかこの言葉は「聞く勿れ誰が為に鐘は鳴ると、(それはお前自身が構成する大陸の一部が崩れ去ったのだから)汝が為に鳴っているのだよ。
」と云う意味の詩の一節であった様に記憶しています。
中川さん安らかにお眠すみ下さい。