その当時の住居表示は、大阪府南河内郡美原町菅生となっていた。
ところが六十一年の二月から団地内の東西に走る各道路を木材通と改称すると共に、団地内の総ての地番に木材通を冠するように改められた。
名実共に木材の街としてすっきりさせたのである。
岸和田のコンビナートにも、・・・・木材町の名がある。
商工業団地や専業地区には、それぞれ商工業の名称を付した行政地名が誕生している。
新木場といえば東京のそこを指し、大阪市の衛生都市である枚方市の長尾家具町・長尾谷町、東大阪市の金物町、箕面市の東船場・西船場の町がそれである。
大阪市の東区にも猫の額(約三八〇平方米)ほどのとこに材木町が歴としてある。
そこの来歴は不詳であるが、現在では名のみで形骸もないところである。
その点、この木材団地の進歩は時代の推移とともに目覚ましく、知れる限りでも美原木材団地簡易郵便局の開設、緑化事業のための並木の植栽、事務局の「すぐやる課」の設置とにかく協同組合でここほど各種委員会の多いところは他に類例が無いと聞く。
目新しいところでは、情報委員会がある。
現在あらゆる情報の渦巻く中に於いて、いち早く取捨選択してファックスで流している。
これなどは他組合にないかもしれない。
取り分けの快挙は六十二年春、オレゴン州はポートランドにある姉妹提携のホレストリーセンターを大挙して訪問したことである。
これすべて、いつもINGの中川さんなればこそであろう。
さて中川さんは、団地の理事長として、木材団地の活性化に尽力されたことは、いまさら喋々と申すつもりはないが、その大きなものに六〇年三月に開館した、木材利用普及研修センターの『ウッドリーム大阪』がある。
初めて日本に誕生したのであるが、その後に出来た各方面のそれらと比較しても、遜色しない立派な建築物である。
『木・石・鉄』を交えながら、木の特長の何たるかを具現したのが、あの建物であると中川さんは喝破していた。
エントラスホールの階段の手摺の金属の黒、同じく床の玄昌石の黒いモザイク、ところがひとたび扉を開けて見た大ホールは、黒色のサッシュと調和して、総て木材の特色を生かしたものばかりである。
木材は塗装の次第で濃くも、薄くも、淡くも、しかも木目が生きてくる、これが中川さんの主義主張であろう。
同じ道を歩む後輩として中川さんに申し上げたかったことは、いま少し働く時間の計算をして欲しかった。
そのうえ中川さんは自己の体調のいかなるかを知りつつ業界のために八面六臂の働きをし、それこそ粉骨砕身された。
これ即ち中川ISMと申しても過言ではあるまい。