通常松上丸太は、十二分に造材されているが、中川さんの注文は、長さに五寸に上の延寸があれば買うとの話である。
幸い長さを計ってみると、五寸に上の延寸のものが大部分だったので、この初商売は成立したが、延寸が条件で商売が出来たというのは、一寸珍らしいことなので、今でも忘れずに憶えているし、中川さんを識ったのも、この取引きが取り持った縁である。
その時の中川さんに対する第一印象は、苦労知らずのお坊ッチャン、商人というよりも、学究的な青年という感じを受けた。
その後、中川さんは、商売のかたわら、母校三重大学の林科の講師に就任されたとのことで、時々、東洋木材新聞に、随筆とかユニークなエッセイを寄稿されるようになった。
当時私もつまらぬ駄文を時々投稿していたので、何となく親近感を持つようになったのである。
その頃は戦後の混乱もおさまり、新生日本の胎動が始まっていたが、木材業界でも旧勢力に対抗して、新進気鋭の若手に依る、業界刷新の動きがかなり活発になっていたが、当時若手のリーダー格であった西本氏を中心とする新興勢力の活動が実を結んで、全国に魁けて、理想に燃ゆる大青協の誕生をみたのであるが、業界に大きな一石を投じたこの運動には、中川さんは大きな役割りを果したようである。
大青協発足後の中川さんの活躍は、まことに目覚ましいものがあり正に口八丁手八丁の八面六臂の大活躍であった。
斬新な発想とその行動力は抜群で、大阪に中川ありと、全国から注目される存在となった。
大阪の中川から日本の中川へと大きく飛躍して、輝やかしい脚光に照らされ、名声をほしいままにしたのである。
出る杭は打たれるの話で、中川さんは、その言動が華やかで、理想と信念に向って邁進しようとした為に、人間関係で摩擦を生じた面もあったらしいが、然し、先覚者として一つの目的を達成する為には止むを得ぬことであろう。
中川さんが、業界に遺した数々の功績の内、林野庁の要請に応じて、美原の木材工業団地に建設した"ウッドリーム大阪"は中川さんの決断と実行力の発揮によって実現したものである。
今となっては、中川さんがこの世に遺した、最も確かな功績を証明するシンボルであり、輝やかしい金字塔であろう。
又先年出版された"木材流通とは"は内容のある立派な名著である。
多彩な日常の貴重な時間をさいて、よくもこの本を出版されたと、唯々敬服のほかは無い。
せめてもう後五年は逞しく生きて欲しかった。