美原団地協同組合へ問合せたところ、入院手術が成功されて居られるが、まだ面会出来ないとの事で、お見舞いに行ける日を待って居りましたところ、亡くなられたと言う知らせで、一体どうなったんだと、ビックリしたのであります。
私は中川さんと、大正九年の同年生れで、いつの間にやら話が出て、二十年前から材木屋の大正九年申年生れと言う事で、「申木会」と名づけて、十一名で発足したのでありますが、安田木材の安田さん、花尻木材の花尻さんが亡くなられて、九名の者が永年に亘り、年に一-二回、夫婦連れで旅行に出て、いつも気楽な、四方山話に花を咲かして居りましたが、二度とあなたの話を聞く事が出来ず、寂しい限りであります。
ついに西濃木材の西畑さん、美濃清木材の竹本さん、松尾木材の松尾さん、久保木材の久保さん、大重木材の宇田さん、高橋木材の高橋さん、早川木材の早川さん、小郷の八名となってしまいました。
昭和六十三年秋には、私と中川さんが当番幹事で佐渡に行ってみたいと中川さんが言われて居ったのですが、結局、萩の歴史の街に決って、その手配を中川さんがしてくれて、楽しみにして居ったのですが、あなたと一緒に行く事が出来ず、寂しい旅となったわけでした。
一番元気だった中川さんが先立つとは、夢にも思った事がありませんでした。
中川さんは、木材流通の権威者であるばかりでなく、文化人としても豊かで、然も常に時代の先端に立って、開発精神に富み、立派な後継者への指導者でありました。
いろいろの会を設けられ、その実行力も抜群で、皆に尊敬されて来ましたが、健康で元気だった中川さんも、近年枕を持って旅行する、皆と一緒では、寝られない等、言われて。
私は日頃、病弱で今までに大病に苦しんで来ましたので、「中川さんも一度検査されては、どうでしょうか」と、話して居りましたが、本当に惜しい人を亡くしてしまいました。
木材業界の大きな損失ではありますが、あなたの設立された各種の会が、あなたの遺志を充分、受継いで、永年に亘り木材産業発展に努力される事と、信じて止みません。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。