面接でお会いした時の事です。
小柄な、少し太めの理事長が、とっても優しい笑顔で直接応対して下さいました。
昭和五十九年十一月二十日、ウッドリームの着工の少し前に、私は木材団地にお世話になる事が決まりました。
ウッドリームの意味もわからず工事が始まり、五ヶ月後には立派な建物が出来上がりました。
昭和六十年六月九日のウッドリーム開所当日の、理事長のうれしそうなお顔は忘れられません。
そして祝賀会が終わった時、私達職員一人一人に手をさしのべられ「おつかれさん、ありがとう」とおっしゃって下さったのには感激し、涙がこぼれたのを覚えています。
当時私は子供も小さく、急に休んで職場に迷惑をかける事も多いのではないかと、自己の都合でパートで働かせていただいておりました。
六十二年四月、下の子が小学校へ入学したのを機に「女性もこれからは真剣に仕事に取り組むべきだ、男性と同じ土俵で仕事をしなさい」という理事長の言葉で私も主人も決心がつき、正社員にしていただきました。
理事長は、仕事に対して大変厳しい方でしたが、私達女性に対しては優しい方でした。
しかられた事もありましたが……組合創立二十五周年の折、木材団地の歌「あたらしき大地」を録音した時の事です。
理事長は声量があり、又大変澄んだ声をしておられたので、テープを聞き返してみると理事長の声が中心になって入っています。
これにはまいりました。
そのすばらしい声で「マイウェイ」の替え歌を唄われるのです。
その歌声が私は大好きでした。
そして唄われている時のお顔が大好きでした。
たった四年足らずの年月でしたが、理事長については想い出が多すぎて語り尽くせません。
ただ、私自身これからも理事長のようにいつも前向きの姿勢を忘れずに生きていきたいという思いを新たにいたしました。
私のような者が追悼集に寄稿させていただくのは大変心苦しく恐縮しておりますが、理事長へのご恩返しになるのではと思い、ペンをとりました。
最後に故中川藤一氏のごめいふくをお祈りいたしますアーメン