その後仕事を離れた面での親交が深まり人生論について話し合うことが多かった。
そして同氏と私との共通の生き方は、「高い知性、鋭い感受性、そして逞しい実行力」の実践ということであった。
これは、ゲーテの言葉で、私は大学の卒業に際して人生の指標としたものであった。
中川氏はこの言葉に共感せられ、氏は「経済と文化」の両立を唱えられ、「木」に関する流通経済と木の文化について深い研鑽を積んでこられた。
もともと、氏は文化に対する認識と教養が深く、版画家徳力富吉郎の木版画を高く評価せられ、西洋のエッチング(銅版画)や、リトグラフ(石版画)の冷さより、日本の伝統芸術の木版画の暖かさに傾倒せられていたし、また石の芸術にも異常な憧憬をもたれ三州の石の彫刻家鈴木政夫の作品を世に紹介せられ自らも石の彫刻を試みるなど異常な傾倒振りを示された。
また、一面、母校三重大学農学部(旧三重高等農林)では「木材の流通経済学」を講述せられ、外国材の輸入激増に伴い国産材の需要の下降を憂えられ「供給はそれ自体需要を創造する」という経済理論を提唱せられ、国産材の流通機構の整備と改善を行って供給態勢の確立を強調せられたのは異色であった。
氏が著された「木材流通・国産材時代への戦略」(昭和六〇年)「木偏百樹」(昭和六一年)「木材流通が変る」(昭和六二年)の著書は経済人である氏が高い文化的教養に裏打ちされていることが躍如として氏の教養の深さがよく察知される。
また、氏は豊かな企画力と政治力を有せられ、木材業界の整備発展の為に大阪府に働きかけられ、昭和三六年南河内郡美原町に「大阪木材工場団地協同組合」を設立せられ、自ら理事長として実務面においても貢献せられ、また、農林水産省の農林委員として木材業界の声を農林行政の上に反映さすなど木材業界に対する功績はまことに大きいものがあった。
氏のこのような八面六臂の活動の裏には輝子夫人の内助の功の大きかったことは特筆すべきことである。
昭和六三年九月五日六十八歳でこの世を去られたことは木材業界にとってもその損失は大きく、まことに痛惜の極みである。
今、氏の生前を追憶して御冥福をお祈りする次第である。
合掌。