始めてお目に掛ったのは私が家業の木材業を離れて二十年も過ぎた頃だから今からだと十四、五年も前のことになる。
ある会合でお目にかかりたまたま姓が同じで然も御坊の御出身であったことから五十年も前の古いこと思い出しながらの昔話に話題がつきなかったことであった。
私も養父が御坊の林業関係の出であったこともあって今から六十余年前父につれられて藤一さんの御坊のお宅でおじいさんの藤吉さんにお目にかかったことがある。
その時の藤吉さんはもう可なりの御年配であったと思うが丁度藤一さんのようなタイプの方で白髪を交えて長火鉢の前に座って居られたが私もこれから木材業の仲間入りをさせていただきますのでよろしくお願いいたしますと御挨拶した話など。
それ以来お目にかかるごとに親しさが一層深くなり他の人から見れば親戚のように見えたかもしれない程の付合いとなった。
藤一さんとのお付合いが始まった頃は丁度私が関係していた高松取引所業界で合板上場の取引所の設立が話題になり津田良太郎さん竹田平八さんなどに度々お目にかかり話が具体的に進む途中でお二人がなくなられあとは中川さんが中心となって合板先物取引所研究会をまとめられたことだったが私も高松取引所の責任者として御相談に預る機会が多くなるにつけ中川さんの人となりにも引かれ公私に亘りお付合いが益々深くなったことだった。
とにかく物事に対する研究熱心さに感銘させられたがとかく商売一途に走りがちな業界の中にあって中川さんの存在は異色のものであったではないかと思う。
近時情報化社会の発展に伴い経済界では挙げて先物取引市場の研究が進み既に金融株式はこの緒につき高松先物取引市場の研究も益々重要さを増す中にあって中川さんの急逝は私たちの業界にとっても大きな損失であり遺憾に堪えない次第であるが今はただご冥福をお祈りするばかりである。