話し始めれば幾らでもあとから後から懐かしい思い出が甦ってきて、語りつきることが無い気がします。
いつお会いしても、諄々と倦むことなく明日の日本木材の在り方を説く中川先輩の温顔がしのばれるのです。
当時から、中川さんは広く国際的視野を持たれ、林材業に携わる者の責任と衿持を持って、同じ道を進む私達後輩の指導育成に努められていました。
私は心ひそかに薫陶を受けている自分を中川学校生徒と呼んでいました。
どんな後輩に対してもわけ隔てなく、暖かい包容力を持って指導され、まさしく木材業に於いても人生に於いても師と呼ぶにふさわしく、私は自分の頭脳が、乾いた砂地が水をどんどん吸収するように、中川さんの講義に傾倒し同調するのを覚えたものです。
思えば中川先輩はまだ若く、そして私も二十代でした。
私が初めてご交誼を願ったのは、確か昭和三十年頃、木材青壮年団体連合会に私が入会した時でした。
中川先輩三十代半ば、私はまだ三十前の若輩でした。
木材の流通は、物流というものと商流というものと二つ重なって成り立っているのだ、というのが中川さんの持論でした。
そして流通は常に変化するものであり、今日の主流が明日の主流とは限らない、ということでした。
それは私自身のこの四十年を振り返って痛切に体験したことでもあるのです。
木が呼吸している生きものであるように、木材会社の経営も常に生々流転変化しているものであり、時代に順応は勿論、むしろ先取りしていかなければ難しいということです。
私は中川学校の模範生徒ではありませんでしたが、師の教えを幾らかでも拳々服膺した生徒だと自負しております。
その中川先輩今は無く、人を包みこむあの柔らかな関西弁をお聞きする機会は永久に失われたのかと、胸の中を肅条とした風が吹きぬけていく思いです。