中川さんの訃報に接したのは、昭和六十三年の九月初旬でありまして、同年七月上旬三重林学会の理事会を、母校にある三翠会館で開催したおり、何時もと少しも変らぬお元気なお姿を拝見したばかりであり、且つ私より十年近くも年少であっただけに、愕然とし人の命のはかなさと人生の無常を改めて犇々と覚えずにはおられませんでした。
幸若舞の敦盛の一節「一度生を得て、滅せんもののあるべきか」の文句が髣髴として脳裡を去来したのを思いだしております。
「人生八十年代」といわれている今日、まだまだ若かったのにと思いまことに残念でなりません。
御承知のとおり、中川さんは、生前の数々の肩書きが示すとおり、木材産業人として独り大阪地区許りでなく、中央においても、業界発展の為大きな貢献をなされたのであります。
特に中川さんが強調されていたのは、高度成長を続ける日本経済の中において、従来とかく忘れられ勝であった「木材流通」に取り組み、これがメカニズムを理解する重要性を大きく指摘されたことであります。
その象徴的なものは、昭和五十九年末発刊の「木材流通とは」の著書をあげることができましょう。
又中川さんは木材産業の発展に努める傍ら、木材の供給源である林業の伸展にも積極的な支援助言を与えられたのであります。
更に中川さんは、二十年余の間母校三重大学農学部の講師の職にあって、その豊富な体験と優れた理論を駆使して「木材流通」を中心とする講義を行われたのであります。
次に中川さんは三重林学会の副会長としては、会の運営に大変熱心で役員の信望を一身にあつめられており、次回以降の役員会には、中川さんの温容と謦咬に接することができなくなり、役員一同は必ずや一抹の寂しさを覚えることでありましょう。
私が中川さんの奥様にお目にかかったのは、昭和六十年十一月三日三重大学において、総会を十三年振りに開催した折り、夫君に同行された時であります。
私が中川さんが社会的にも家庭的にも成功された源泉は、この奥様にあると思わざるを得ない程の印象を受けたのを覚えています。
中川さんは、定めし人知れず浪速の生んだ女流詩人与謝野晶子さんの夫君鉄幹氏作「人を恋うる歌」を口づさんでおられたことでありましょう。
中川さんの遺業は、御子息が継承され隆昌の一途を辿りつつあるとのこと、在天の御霊も温かく見守っていられることでありましょう。
終りに一句、「亡き友の業績しのぶ梅花かな」