戦前は六年制の大学(予科三年、学部三年)だったので本来なら馬術部で何年か一緒になるはずだったが、彼が三重高等農林から学部に編入して馬術部に入部したとき、私がすでに卒業したあと。
そんな関係で彼と私は擦れ違い、初めて会ったのは終戦後である。
当時私たちの学生時代は、卒業するとほとんど兵隊にとられ、彼も学徒動員の繰上げ卒業で入営した。
そんな騒がしい世の中だったので、戦局がきびしくなると、在学中の学生が次つぎに召集されて、また馬術部の馬も徴発されて戦争末期の馬術部は、名ばかりで壊滅状態だった。
終戦で馬術部から出征した部員たちが復員して復学、昭和二十一年四月から休校中の大学が再開したが、馬場はいも畠に、厩舎や部室も取り壊されて使えず、全く一からの出発だった。
先輩を頼るにも、みんな生活するのが精一杯で馬術部の面倒を見るどころではなかった。
そんな最悪の事態のとき、馬術部復興に尽力してくれたのが中川君だった。
彼から木材を提供してもらって四頭の入る厩舎を建て、また彼の世話で報国乗馬クラブからハツマサ号が入厩した。
そのお蔭で再建馬術部が発足した。
このハツマサ号が二十二年、金沢市で開催された第二回石川国体の自馬中障害飛越競技で優勝している。
当時私が朝日新聞の現役だったので取材に行き、中川君と初めて会ったのが金沢の競技場だった。
彼が馬術界に残した、大きな功績の一つは、二十八年十月、全日本馬術大会を大阪に誘致、三笠宮をお迎えして長居競馬場で開催したことである。
当時日本馬術連盟の理事であった彼が、ねばり強く関係方面と交渉して誘致に成功、またこれまで一回だけの競技会を二日間とし、競技内容が充実して好評だったので、以後会期の二日間が定着した。
物のない時代に、全国的な規模の競技会を開催する苦労は並大抵ではなかった。
とくに馬術は、競技場の設置、全国から馬を受入れる仮厩舎、選手役員の宿舎の斡旋など困難な問題が山積した。
それを支障なくやってのけた彼の組織力と実行力に、だれもが驚嘆した。
彼の八面六臂の活躍がいまも語り草になっている。
昨年彼が亡くなるひと月前の八月、服部緑地乗馬センターのクラブハウス竣工記念祝賀パーティで会ったときは非常に元気だったので突然の訃報が信じられなかった。
四十年になる彼とのつきあいが、今となると長いようで短かったように思う。
頼りにしていた馬術部の支柱を失い痛恨の至りである。
生前彼は、自分の葬送には関大馬術部の部旗を掲げてほしい、と奥さんに話されていたそうだ。
千里山騎士会(馬術部のOB会)の副会長だった彼は、関大の馬術部員だったことを誇りにし、馬術部をこよなく愛する彼の心情が切々と伝わって胸が熱くなった。
彼は常に馬術部の前途を気遣っていた。
戦前、名実ともに日本一と言われた関大馬術部が戦後沈滞し、ようやく隆盛の兆しが見えてきたものの、まだ新興の大学に押され気味である。
現役の馬術部の諸君は、中川先輩の期待に副うよう頑張ってほしい。
中川君、われわれ騎士会の会員も、日本一の馬術部を目ざして応援するので安らかに眠ってください。
(千里山騎士会会長)