時間の無駄を省き次の手を打つ。
そんな社長と私が始めてお逢いしたのは忘れもしない昭和三十二年五月二十六日大阪大正区懐しいあの難波島の会社でした。
中川社長は、颯爽とヒルマンミンクス車(当時高級車)を運転し私共を、得意先の中山製鋼所へつれて行かれ「うちの杭丸太は大阪の地盤沈下を支える基礎になるんや」と云われた事をまるで昨日の事の様に思い出します。
当時は杭丸太問屋は大阪に大手三社があり中でも吾が社は一番後発で色々な方面で風当りも強く基盤が出来る迄は御苦労が絶えなかった様に思います。
昨昭和六十三年五月雑談中「なあ丸山君あの頃しのぎを削った連中は皆木材から撤退したがうちだけが残って未だに杭丸太を扱っていると云う事は我々頑張って来たんやなあ、しかし商売のやり方、扱い商品、考え方には隔世の感があるね」と遠くを見つめ今昔の感に絶えない御様子でした。
中川社長は昭和二十九年アメリカ西海岸へ杭丸太の買付けを皮切りに三十四年にはフィリピン、オーストラリア、ニュージランドへ木材視察、四十九年ツーバイフォー工法の視察、五十六年にはシカゴ商品取引所他各地へ渡航され、外から見る日本はどうか、我々はどうすべきかと云う事を絶えず考えておられた。
昭和四十九年カナダ・アメリカ西海岸へつれて行って頂いた時の事、旅の終りにハワイのホテルで社長は「たまに外国で日本を振り返るのは大切な事や、木を見て森を見よ。
と云う諺があるが帰って商売をする事はさしずめ木を見る事や」と云われた。
その時スケールの大きさに驚くと共に増々尊敬の念深めました。
昭和四十七年現在の岸和田支店ビルが完成した際「国際空港が十年先には本決りになるから忙しくなるぞ公共事業も多くなり活気が出て来る絶対に乗り遅れるなよ」との御言葉で待つ事久し、やっと一昨年から夢が実現した。
があれだけ待ち望んでおられた新空港のせめて一番機だけでも支店の屋上から見て頂きたかった。
三十二年間社長の足を引っぱり乍らついて参りましたが仲人から銀婚式迄子供同様に可愛がって頂き親孝行も出来ぬまま逝ってしまわれ唯々悔いが残るばかりです。
「天国の社長へ」お別れして早や半年、一時的に沈んでいた社内も新社長の許、非常に活気が出て参りまして内需拡大のおかげもあり社業は安泰です。
最愛の奥様もお元気で社員やその家族の事に心を配って下さっております。
天国でどうか私達を見守って下さい。
そして、一言、結論は私が眠っている間に出しなさいと