この間、あまりにも突然の死を惜しみ、ご遺徳を偲ぶ関係者たちが絶えず私の耳に入って参ります。
まさに比類なき温容なお人柄で沢山の人に慕われた方ならではのことでありましょう。
私自身、ロータリー米山奨学生として、様々な交流の活動を通じて、二年にわたり、色々ご指導を頂き、去年に入っても、とても元気で奨学事業において活躍されていたことはよく存じておりましたし、また前回の全国統一RACの日で、上手に縄跳びをする様子から見て、長生きされるに違いないとかねてから考えておりましたので、突然の訃報はまさに青天の霹靂でした。
中川様の存命中で、昭和時代の激動につれて、事業家として、どう言うように日本の経済発展に貢献したことは存じておりませんが、ロータリアンとしてボランティアの奉仕精神を持って、米山奨学財団の寄附、又は留学生の交流活動、そして留学生のお世話に積極的に参加して、ついに大阪二六六地区の米山奨学委員長に選ばれて就任したことは、お人柄が沢山の人に認められた意味をしているとは、私の理解が出来ます。
今、ペンを持って振り返りますと、中川様の素晴らしさに感激した場面が走馬燈のように次々と、私のこころの中に浮んで来ます。
中川様とお目にかかる機会は何回もでき、いつももその温顔と明快なお話しぶりが印象的でした。
特に「国際理解と親善のためにご協力を頂きたいとお願いします」と言ってくれた時、常にしみじみと感銘を受けました。
もっと思えば米山奨学生の招待旅行において六甲牧場から帰った途中のバスで、われわれ留学生の寂しい気持を察しました。
「ご暇があったら私の家にいらして下さい」と話しながら、丁寧にお家の地図を書いてくれました。
今、この地図を見ますと、あのやさしい心の流露はすらすら綺麗なお文書からよく表現が出来ました。
もう一つ、忘れられないのはある交流会で、中川様の出身校である関西大学に通っている戴さんに「今年後輩の施さんは米山奨学生の試験に合格した」とおっしゃられたことです。
このことは中川様がいつも御自分の後輩のためには努力を惜しまなかった事を示しており、私は温かい先後輩の提携する感情、むしろ師長の美しい思いやりの関係を見たようで、施さんはよい先輩を持って幸せだなあと思います。
昭和の終焉と供に幕を閉じる中川様が人の心の中に永遠に消える事は出来ません。
われわれ米山奨学生はきっと中川様の懸念している国際の理解と親善のために頑張りたいと思います。