中川君は、商学部。
私は法学部でしたから、しょっちゅう一緒ということはありませんでしたが、しかし、私には彼の乗馬姿が未だにはっきりと脳裏に刻まれています。
戦時中の学生には軍事教練が強制され、これをサボルと軍隊へ入ってから、幹部候補生の受験資格がもらえないばかりか、学校の卒業をも止められる結果ともなるきびしいものでした。
だから私達は、雨の日や雪の日も週二回、四時間の教練には、いまだから言えますが、いやな、つらい思いで出席したものでした。
そんな教練で、敵味方に分れての校外演習のときです。
中川君は、いつも学校の自馬に乗って、軍隊での司令部附将校のような役で、私達が徒歩で三八銃にゴンボ剣、汗を流しながら、行進、突撃している横を颯爽と騎馬で走り抜けてゆく。
うらやましいなあ、ええなあと、どれほど思ったかわかりませんでした。
選択科目で教室が一緒になったり、校庭で顔を合わせては「君は馬が上手でええなあ」とうらやましがったものでした。
昭和十六年十二月八日、太平洋戦争が始まった翌十七年九月二十日、私達は、学業を半年短縮され、大学のキャンパスから、十月一日には、現役入営のため、それぞれ、各連隊の兵営へと入隊してゆきました。
私は、はからずも京都伏見の中部第四十三部隊の輓馬輜重で、毎日、馬との生活が始まったわけです。
最初のうちは、あんな大きい、おそろしい馬と思っていたのが、だんだんに馴れてきて、余程癖の悪い馬でない限りは自由に扱えるようになり、何回か大地に振り落されて後、まあまあの立派な姿勢で騎乗できるようになりました。
とても中川君が馬術部の馬場でやっていたような高等馬術とまではゆかなくとも、ただ、かっこよく乗り、疾駆させることぐらいはできるようになり得たとき、乗馬演習の時間が本当に楽しくなり、誇らしげに町中を駆け抜けたものでした。
中川君もきっと、その当時の私の気持と似たような気持で、汗だくで三八銃を担ぎ、ゴンボ剣を吊って飛び廻っていた私達の横を走り抜けて行ったのではないでしょうか。
……学生時代に……天国に召された中川君、どうかやすらかに。