私の亡父は、戦後同じ長堀筋で木材業を再開してより、非常に親しくしていただいていましたので、父の書いたものに、中川さんのお名前が出てまいります。
昭和三十二年、宮瀬三八郎氏(当時、宮瀬商店社長)と同道した初めての訪米のとき、シヤトル在住四十年という千原、角島両氏に大変お世話になった様子が「外遊木やり日記」に書かれております。
千原ジュリーの名のお店を開いておられ、夫人は中川藤一さんのご親戚で幼馴染みということでしたが、空港の出迎えから市内の案内、ホテルの世話までご厄介になって、見知らぬアメリカでこんなに親切なもてなしを受けるのも、中川さんのお口添えによるものだと感謝し、晩年まで非常に懐しい思い出として話しておりました。
千原、角島両氏とも既に世を去られましたが、今でも両家とはお付き合いを続けております。
また、シヤトルのパシフィックランバー社から電柱丸太を輸入した際に、こういったご縁で、中川さんにその全丸太を引受けていただいたこともあり、シヤトルといえば中川さんがすぐに思い浮かぶ様になりました。
私の友人から聞いたところによりますと、中川さんは母校関大馬術部の後輩にも、永年、物心両面にわたって面倒を見られ、多くの学校関係の友人方からも惜しまれておられるとのことであります。
業界意外にも多勢の友人と交遊のあられたのは、そのお人柄の広さによるものでしょう。
父は、中川さんの木材に対する情熱と、深い知識に敬服しており、私にも親しくご薫陶を受ける様にと、よく話しておりました。
よき先輩として、もっともっとお教えいただくことがあったはずですのに、迂闊にもいずれ機会があると思って過してしまったことが悔やまれてなりません。